歩み
DSC_0018_2017032109250846b.jpg

イデオロギー、思想
そうしたものと
直感的でスピリチュアルなもの
サブカル的なそれとは
時に近似性をもつのかもしれない。

けれど
顕に似て非なる
まったく非なるもの
なんですよね・・・。

無批判なその展開が
弱って思考停止に陥った
ひとの心に忍び込んで
判断力を蝕んでゆく
或る、社会的現象に
胸が痛みます。

         *

人生は
そんなに都合良くは
正解(救済)なんて転がっていないから

だからこそ
探し続ける訳で

寧ろ大切なのは
その過程
乗り越え行く過程なんですよね・・。

































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【 2017/07/22 20:13 】

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理解を助けるもの


哲学の論理に
一貫した思考の系統
筋道が要求されるが如く
思想の一部を切り取ることでは
見えてこないものがあまりに多くて。

けれど
順次、思想史的に紐解いてゆくなら
思考過程の展開や
発展過程まで取り込むことが叶い
その理解は、驚くほど容易で
確かなものになってゆくんですね・・・。

DSC_0189.jpg

































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【 2017/07/14 20:26 】

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時間*fragmentation 終章
IMG_3412.jpg

”順序の実在性”
こちら、身体としての自我が
出来事のただ中に在ることを強調した
表現と云えましょう。

言葉の意味内実として
境界づける視点としての今が
刻々その位置を変える
縦の志向性が
横の思考関連を獲得することで
出来事は初めて
時間の中の出来事になり得るというこの辺りは、
まさに
心理主義と論理主義のせめぎあいであります。

流れるのは時間ではない
それを語る私たちだけ

ただものだけが
現前から不在(過去)となってゆき
不在(未来)から現前と推移する・・・

私たちは
それを意味付与的に働く志向性を介して

意味として所有するだけ

という理解。

そんな現象学的時間論には
時間を生き生きとした姿で見詰め続ける
真摯な姿勢が備わっているようです。

時間の構成を問うことの本当の意味は、
こうした姿勢にこそ息衝いているようであり
学びに値する書(理論)に潜む”意味(充実)”が
垣間見える思いがしています。


         *


ビーリの指摘を待つまでもなく
時間的生成の一方向性
また、その不可逆性
それと同様に
その都度の現在の時点もまた
説明が拒まれている

何故なら
すべては、内部の事だから。

ーー私なしには
    何ものも
      時間とて存在しないーー















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【 2017/06/23 09:28 】

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時間*fragmentation ⅩⅦ
DSC_0028_201706120943550b0.jpg

消え去った
過去は
”知覚され”
”残響”となる

メルロポンティが如く
(意味付与を行っている主体を体とするなら
意味は、それ自体にとって)
存立する本当の超越論的主観は体でなければならいんですね。

その体の定義は
構成する主観と
主観によって付与された意味を蒙り
そのただ中で生きる客観であり

能動性と受動性の両実を兼ね備えたものが身体
ということになりましょう。

主観自身を含めて
一切が時間的意味をもつものとして
与えられる・・・

なれば
時間は完全に有効な意味を持てるんですね。

流されつつ
立ち止まり(今に位置付けながら)
世界に意味付け
その付与に視点をもって関わる

その両義性

両義的存在としての體。





















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【 2017/06/22 08:14 】

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時間*fragmentation ⅩⅤ~独断的見解に陥らないために
DSC_0185_20170612094802766.jpg

内的時間となれば
フッサールが問題にした
過去把持的変容。

色褪せ行く過去
そう、原印象の褪色はなぜ起こるか
なんですけれど。

過去把持とは
過ぎ去った印象を今に引き留めておく働きであり
変容に抵抗する働きでも
生起させるものでもないものですから
過去把持的変容に無理はありません。

併し乍ら
彼が目指したような
実在の時間だけは
排除できようはずもなく・・・。




その理由は
時間経験そのものが
時間のなかの出来事だからなんですね。

よって
反って、時間の実在性を思い知らされる
そうした考察になっていました。

















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【 2017/06/20 08:32 】

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時間*fragmentation ⅩⅣ~独断的見解に陥らないために
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そうなりますと
ラッセルが言うところの
自己中心的特殊規定。
こちら、カントの直観の形式をさらに徹底化させた
時間の観念的性格を端的に表したものと謂えましょう。

空間は等方的。
時間は非等方的。

さらには、現在の記憶
に表されたベルグソンの時間論の危うさ

そこに照準を合わせたかのような
フッサールの 時間講義
その感覚与件
客観的時間構成への考察

こちらは、分かり易く言えば
今の意識を
絶対に変容されていない
原印象に関連させようとするもので
記憶や想像でない
知覚を通じた直接的印象
対象化された原意識の今を
時間構成の原点にしようとしたものでありました。

さらに読み解くなら
彼の理論は
寧ろ、絶対的意識流の自己時間化(自我の働きで構成)
として捉えようとした
自我論に近しいんですね。

突き詰めれば
今を基点とする時間への意識は
自我が機能するもっとも根源的形態です結え

生き生きとした現在
を実感するためには
客観的時間のみならず
内的時間を包括するのもまた必然でありましょう。















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【 2017/06/19 12:46 】

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時間*fragmentation ⅩⅢ〜独断的見解に陥らないために
IMG_3304_20170612103434fd5.jpg

ましてボルツマンの
エントロピーの増大で
時間の流れの方向性を
定義しようとした提案は
恐らく必然・・
ではあっても
矢張り合理的説明には
致ってはいないんですね。

であれば、常に異なる今の連続
時の経過の向きは
不可逆的としか
説明の仕様がないのでしょうか。

そこで
”継起の秩序”
マクタガードの時間論には
時間の非実在性がありました。

こちら自我によって構成された
非実在的現象と換言することも出来ましょうか。

となれば
ここで自らが解釈した
ヘーゲルの言葉が想起されてくるんですねり

ーー実在は無時間的
それが反芻のなかで
時間系列のカタチを取っているに過ぎない。

なにものも変化しないなら
時間はありえないーー

存在論的には、両者がどう浸透し合っているかは
言えなくとも
変化と時間の不可分性は証明できましょう。

時間は、ある主観の働きを予想する
そう、
理性的意識が存在しない以上
時間の存在論って実は、不可能なんですね…。








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【 2017/06/18 15:10 】

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時間*fragmentation ⅩⅡ〜独断的見解に陥らないために
DSC_0020_201706120943219ae.jpg

それでも
時間の流れの円環性に
必ずや潜む不合理

純粋理性批判
外観の形式、すべて同時的に存在する空間
内観の形式、無限に伸ばし得る時間
絶え間なく消えゆく直線のイメージさえも
無理があるといえばそうなんですね。

そこで自然現象を支配している幾つかの
根本原理、因果律を
時間の言葉に翻訳してみますと
その時間の流れの方向性
分かり易いところで因果律の命題
原因は結果に先行する
から分析的客観的に
時間的順序が導かれてきた

といったような
謂わば思想史のような捉え方が
より近しいのかと。

もちろんそこでも
仮定的側面から逃がれられては
いませんでしたけれど・・・。















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【 2017/06/17 07:25 】

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時間*fragmentation ⅩⅠ
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此処で現象回帰を
時間の回帰と読み替えたと解釈するならば

また、
彼の"瞬間と永遠"を見落としさえしなければ
ニーチェは理解しやすくなるんですね。
そして、ハイデガーの考え方の様に
永劫回帰思想を
肯定方式に至らせた経緯もみえてまいります。

時に歴史学の利害を語ってもみたニーチェ
そんな彼は、

未来に向けて行動し
過去も同時に引き受け肯定する
即ち瞬間として存在できるひとこそ
過去と未来の対立的結合をみ、その瞬間
そこに円環的時間をなす
とも語っていました。

こちらまさに
永遠は瞬間にあるという
ニーチェの”時間への止揚”であり
彼は自己超克を此処に求めたんですね。


ニーチェが絶えず想いを巡らせたギリシアの
天球の円環的循行こそ完全な均一運動とした限りで
時間と円環を結びつけた
アリストテレスの時間論にも似ています。













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【 2017/06/15 21:35 】

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時間*fragmentation Ⅹ
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現代の私たちには、あまり馴染まない
ギリシアの輪廻転生や
シャーマニズムにも結びつくこの概念をして
ニーチェの記述は印象的でした。

ーー世界を一定量の力として

一定数の力点として考えることが許されるなら
その存在の大いなるサイコロ遊びのなかで
有限数の組み合わせ、経験数の組み合わせを
経験していると帰結できる。

無限の時間のなかでは
可能なあらゆる組み合わせは
いつかは一度は実現されてきたであろうし
まして無限回の実現もあろう。

もし世界が有限量の力、力点からなっているとすれば
エネルギーが恒存である以上
世界の事物の配列は有限である他なく
従って無限の時間経過のなかには
同じ配列が反復されざるを得ないーー
~力への意志

さらにツァラトゥストラに至っては

ーー 一切の直線的なものは嘘をつく
一切の真理は曲線的である
時間自体がひとつの円環であるーー

こうした一連の
ニヒリズムにして
最大の定式化回帰思想。

となれば
無限に反復される回帰のなかで
意味を持ち得る人間的努力はあるのかなんて
そんなところへさえも思索はめぐります笑

ですが彼の到底の視点ー認識が生み出す世界ーに立つならば
世界の事物配列の有限性と
時間の無限性という仮説
その反復可能性を一笑に付すには早計のよう。

無論、ニーチェ自身
時間の円環性が結びつく
積極的理由のないことも承知の上の”告知”でありましょうから。

そう致しますと
回帰し得るもの
それは、
時間そのものではなく
現象の形式
という理解になってまいりましょうか。


















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【 2017/06/15 00:18 】

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時間*fragmentation Ⅸ
IMG_3259.jpg
           
ギリシア的コスモスの下に
なし得なかったこと
其処に
キリスト教的時間の観念が寄与したその一方で
近世の物質観
その根本原理もしかりなんですね。
あの慣性の法則も
原理的にはガリレイが既に発見していて
その定式化をデカルトが成し遂げた
ということで。

この差って
地球に縛られたか否か
そのまま
無限を知るひとだったか否かに
尽きるようでもあり

よって
慣性の法則は
空間における思考の変革をもたらし
同時に
時間の変革をも促していったんですね。



ですが
元来的には、
規則的に循環する天体運動や
巡る季節を以ってしても
時間のなかに何かしらの円環性が残るのは
否めないようでもあります。

それは、
ギリシアに古くからある
回帰の思想しかりで
ピタゴラス学派の大いなる世界年
その回帰的時間とも重なるのですけれど・・・。

こちら
お気づきの方もいらっしゃるかと存じますが
ニーチェの 戦慄すべき永劫回帰
あの礎となった考え方でもあるんですね。

















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【 2017/06/13 12:44 】

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時間*fragmentation Ⅷ
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そこで
思想史を紐解いてみると
やはり何かしら見えてくるもの
あるんですね・・・。


時間の流れを表してきた
その伝統的形象としては
大きく分けて二通りあったようです。

そのひとつは
ギリシアの民が愛した
永遠の円環運動です。

こちら文字通り
自然の円環性を見詰め続けたもの。

いまひとつは
キリスト教の終末論的世界観に基かれた
起点(創造)と終点(終末)を備えた
謂わば上昇せる直線運動です。

両者の長い思想論争の結果
(先の記事に記したように)直線的進歩史観
即ち現代の私達の心情的理解に根ざした時間意識である
不可逆的時間といった観念へと
導かれてきたんですよね。

ですので
ニュートンの絶対時間に収斂された
近世の時間意識とて
そもそもは
その無限性の存在根拠を神のうちに
見出だしていたということなんですね。

結果、ギリシア的円環から
直線化された時間

ですが・・・。

















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【 2017/06/12 12:07 】

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時間*fragmentation Ⅶ
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ここで忘れてならないのは
時間の問題は
人間論には、なくてはならない
重要な要素であるということ。

その理由、それは
現実が、同時的に存在する無限空間によってのみ
相互交換が可能であること、
また、人生の重大事の多くは
取り返しのつかない事象から成り立っていること

よって
時間の存在理由は
不可逆性に潜む
といっても
過言ではないのかもしれません。

時間とは
変化、浸食作用、無常
その原理であり
その絶対的器とも謂えましょう。

そんな時間に対し
”一切が同時に与えられることを妨げるもの”として
時間に積極的な働きを与えようとしたベルクソンが如く

もしかしたら
私たちが、今乗り越えねばならないのは
時間の自明性そのものかもしれません・・・。

























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【 2017/06/08 09:23 】

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時間*fragmentation Ⅵ
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そうしたなかで数量化或いは
空間化(時計で測る時間=時計の針が動いた文字盤の長さ=空間の長さ)されゆく時間を
時の経過そのものの時間(純粋持続)と区別しようとした彼ら。

そうして西洋で展開されてきた様々な時間論
取り分け、
記憶と知覚の関係を円錐形で表したベルクソンの方向性と
時間が時間として構成される最も根源的な形態を問題にしたハイデガーのそれは
真逆でありましたけれど。

こちら、先に記したように
時間の表象は極めて曖昧ですゆえ
その視角の差が
そのまま表象自体の差に繋がってしまうが故のことでしょう。

個人的には、ハイデガー(フッサールも近しいですが)の言う“人間の時間性、時間化”
所謂“時熟”の概念を胸に留めていたいと思ってはいるんですね。

なぜなら
自らの有限性を引き受けると申しますか
時間の内なる存在を自覚してこそ
凛とした生き方が叶うように感じるからであります。














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【 2017/06/07 09:57 】

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時間*fragmentation Ⅴ〜時間への眼差し、その変遷
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と申しますのは
ニュートンの絶対時間の考え方に
私たちは自ずと傾き
そこから殆ど進歩していないようにも見受けられ…。

彼の著作”自然哲学の数学的原理”
その注釈にあった、時間を観念的にしか考えられない
そのことへの問題提起がありましたけれど
確かにそうしたスタンスも
持ち合わせておかねばならないものでしょう。

かつてのアリストテレス
”自然学”その4巻にもあるように
”時間は変化(運動)なしにはありえない”の例にもれず
ニュートンも時間を物体の運動を測る尺度としたんですよね。

これ等は
時間を感覚でしか捉えられなかった
その”感覚世界”からの解放
とした見方もできましょう。

当に、絶対的な
数学的時間であります。

相対時間から区別された
この時の流れ
どんな変化をも受け付けない
としたニュートンのメッセージが
胸に残っています。

さらには、自然な一日の長さを測定しても
正確なそれは得られない
が故に修正を加えるといったような
時間の流れその均一性への科学的拘り。






























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【 2017/06/06 07:20 】

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時間*fragmentation Ⅳ
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後のガリレイ
振り子の等時性の発見などによる
近代科学の始まりによって
時間は精密に捉えられるようにもなったのですが
実は、そうした数量化された時間は
経過しつつある時間でなく
経過し終えた時間
即ち、
時の経過が空間に投影された影に過ぎない
といったような主張を展開する
哲人は少なくなくて・・・。
確かに其処では、時間の経過自体のイメージが
分かりづらいのは否めません。
まして彼らの提言は今にそのまま通じる
普遍的志向性であり
傾聴に値する
論理的構成にもなってはいました。
ですがそれでもやはり幾分かの
言葉遊びな感は否めないんですね(涙

けれどその豊かな知見、広い視野、確かな論拠に基づく姿勢
通俗的思考に流されまいとする思考態度
まして、そこに横たわる底知れない奥行き結え
その志向性が私たちを、本来的自己に立ち還らせる
契機になることだけは確かなようで
安易に見過ごしたくはない概念と
受け止めてきました。






















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【 2017/06/02 08:51 】

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時間*fragmentation Ⅲ
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時空という言葉が示しているように
較べて論じられる機会の多い
時間と空間。
けれど(カントの問題設定にもあるように)
空間は、それ自体の構造が
考察の対象になる幾何学を有している一方で
時間には、定理らしい定理すら見当たりません。

それだけでも
時間の表象性の貧しさを
物語ってもいるようで

ウィトゲンシュタインが残した言葉
ーどんなプロセスも“時間の経過”と比較することは出来ないー
もしかりです。

そうした性質上からか
歴史的にも、古典ギリシアの時代のアリストテレスの試みに始り
精神の分散を超越し、その緊張を解明せんとした
アウグスティヌスや
あらゆる価値の剥奪として
ニヒリズムの元兇としたニーチェなどのように
時間は超克の対象にもなって来たんですね・・・。


















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【 2017/06/01 18:24 】

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時間*fragmentation Ⅱ
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そうは謂っても
確かな意思を以ってすれば
未来には、自由の余地も
残されていると信じられもする。

こうして、今を生きる私たちは
過去、現在、未来といった
時間の構造を
直観しつつ生きて来たんですよね。

そう、直観。

時間は、直観の対象、
しかも
あまりと言えばあまりに取り止めのない
あまりに脆弱なその直観的特性。

其処で想起するは
カント
”時間の問題”であります。

ーー時間は自らの内に省みて
自身の内的状態に即して捉える
内的直観であり
外的直観の対象ではない
にも関わらず
吾々は、ひとつの直線でしか時間を表象できないーー

そうなんですね。
”時間の経過”って
明確には、どうにも思い描くことが叶わない
そうした類のものなんですね。


















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【 2017/05/31 08:53 】

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時間*fragmentation I
DSC_0131_20170529100052cba.jpg


移りゆくもの
過ぎゆくもの

それが、
時。

そうした
時の経過への眼差しは
人類の歴史とともに既に始まっていたよう

ベルクソンの創造的進化に照らすまでもなく
時は、
私たちの意のままになろうはずもなく

決して
生き返すことのできない
あの瞬間

すべてが過去に回収されてしまう
この現実に

時間の不可逆性を
思い知らされるばかりです。



















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【 2017/05/29 20:04 】

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カラメルソース〜ベルクソン/創造的進化〜a statue in marble./ミケランジェロ I
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ことこと
カラメルソースを作っていると
思いを馳せるのは
ベルクソンの創造的進化。

それは、芸術論と見紛うばかりの哲学的一見解でした。

と申しますのは、彼の理論からは
私たちをを取り巻くあらゆる物質
その物質世界をひとつの
芸術作品として捉える
そうした眼差しが見て取れましたもので。

確かに物質世界も、また芸術世界も
似たひとつの説明方式を備えている点で
共通項がありますゆえ
ここまでの理解は容易です。

ですがその先
物質的世界の創造が如何にして
藝術に擬えられ論証されていたか
此処なんですけれど。

存在の本質が意識にあるならば
意識=実在、物質=非実在といった構図が生まれがち
ですが、ベルクソンは
物質の中にもある種の実在を認めるんですね
なぜなら科学者たちが一瞬にして導き出す溶解の数式に対し
実際には、ある物質が液体に溶けるまで
一定の時間を要することに注目したから。
ここに、意識様の実在原理を基盤とした現象を見出したんですね、
ベルクソンは
意識を、外界に押し広げて世界を見渡したわけです。

一瞥しただけでは、そこに
論理の飛躍は埋められない
そんな印象も拭えませんが・・・。

ただ、存在様態において語るなら
意識は運動し、物質は不動
といったようなそんな二元論では割り切れない現象があるのは、否めない訳で。

そして例えば、
画家が、カンヴァスに絵を描く行為をみた時に
それをひとつの運動と見做し
そこに引かれた線、色彩を”運動の痕跡”
とした見解に立つならば
物質世界と芸術作品が構造上似ているというのも
強ち分からなくもないんですね。

さらには、流石のベルクソンも
芸術作品が必ず内包する根源的躍動(自己完結せずに、制作の働きと成果物の一致を見、互いに表象し合い躍動する)
そこから放たれるメッセージ性などは
物質世界には、一切認めてはいません
物質は当然ながら物質世界に埋没するのみであろうと。

此処がベルクソンの謂う
”癒し難いリズムの差異”
といったところでありましょうか。

そんなベルクソンの物質的世界の理解を
私は好ましく拝読させて戴いたのですが(笑)

さらには、物質がもつ”spontanéité”
この”自発性”抜きに藝術が語れないというのもまた
見過ごされがちな事実ではないかと・・・。

藝術の領域で
表現者の意図が、そのままにくまなく表出されることの方がむしろ稀で
創造とは
作品上に配置されたる物質
その物質側の運動(偶然性)と、切っても切れない関係性にありましょう。
よって、両者の統合の上に構築されたるもの
それが藝術であり
であるが結えに、
そこから私たちが受け取る豊饒なる世界観は
自ずと大自然を擁することから
測り知れないほどの大きな
精神への贈り物となって
立ち昇ってくる・・・

こちら、かのミケランジェロが残した言葉

ー大理石が内包せし真なる藝術。
芸術家は、ただそれを掘り出すだけー

に通じてもゆくようです。





















































































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【 2017/05/25 12:11 】

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輝ける存在〜或る作品の中に
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言語的意思や内的関係
或いは、知見のなかに息衝くもの。

一定の研究、一事に通暁することで導かれる場所。

豊穣なる文化を余すことなく堪能せんとす
そのプロセスから身に付けたヴェール。

いかに生きるか
どう在れば充実せるかは
そうしたこと以前に

ただ、ひたすらの
日々の営み
ひとときひととき
ひとつひとつの積み重ね
そのもの
なんだろうと…。

そうして
必然、時間に重みを与えることで
高まるクオリティ
深まりゆく生

この瞬間、

の集積が輝きを放つ…。









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【 2017/05/22 19:06 】

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無〜ふらぐめんて


カントやフィヒテは
何を語ったでしょう。

ゲーテ、シラーは
何を求めたのでしょう。

観念論は
虚構でしょうか

ならば
ひとの精神そのものも
虚構でしょう。

すべては
そう
あらゆるすべては
胸の内側にあります。

青い花
たぶん
ひとは
どうしたって
やはり
青い花が……。

それは
冷静な理論家であるほどに。



豊かな時間は
育まねば
なりません。

現実さえ
実はこのこころで
構築されたるものですゆえ。

この世に生を受けた以上は
美しくなければなりません。

生きている以上は
美しくあらねばなりません。

咲き誇る
青い花
凛と
美しく
されど
可憐に
秘めやかに……。

















テーマ:つぶやき - ジャンル:日記

【 2017/05/20 23:55 】

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自由の在処
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"ドイツイデオロギー"となれば
想起せるは、マルクス、エンゲルス。

この書の大半は
一時期、彼らが師事したフォイエルバハ
その哲学への反論に終始していた。
というより
フォイエルバハ哲学、そのままに
形而上学的唯物論が
史的唯物論構築の契機になった
という方が近いかもしれない。

ヘーゲル派にして
フォイエルバハを超えようとした
かのシュティルナーの

ーすべての理想は、幻影に過ぎない。
頼れるは、自己のみ。
あらゆる制約を排除できる
唯一者、自己こそ自由たれるー

こんな言葉が何故か胸に残る。

確かに
指導者的立場にあるなら
許し難い暴言やもしれない、
利己主義と云えば利己主義で
アナーキズムと云えばそうかもしれない。

故、反動的学説と決め付けられ
この書で徹底的に糾弾された訳だが、

しかし
一介の無力な市民からすれば
不可抗力な社会の下に
これほど救いを齎す言葉も
ないやもしれぬ。

立場によって理論は変わる
それが
イデオロギーの一側面だ。































テーマ:思惟 - ジャンル:学問・文化・芸術

【 2017/05/12 15:12 】

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曖昧矛盾の在り様を見つめて
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音楽でなく、ビジュアルでなく
かと言って詩でなく
明確に表現者の意図が
紡ぎ出された作品。

その真の姿を捉えるにも
(エリオットの謂う)
“不都合な条件”を
肯定せざるを得ない場面は、決して少なくない。

まして、時に非専門的評論が
職業的評論より遥かに影響力を持ったりもする中で。

そうして

現代に、誤読の構造が
厳然とあること

それもまた
“自由”の範疇
と云って仕舞えば其れまでだけれど

ただ、
一回の理解
ひとつの解釈で
作品を決め付けるには、あまりに淋しい。

まして、
作品の曖昧矛盾は

読み手の心性を
映し出す“鏡”となることに
思いを致さない訳にはいかない。

























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【 2017/05/05 09:28 】

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倫理による正義、自然による不正義
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正義は倫理的な見方ができても
不正義は
倫理だけでは測れない
何故なら
それは自然が引き起こすものだから
と言った趣旨で
ヘーゲルとマルクスが
一致を見るのはたぶん
偶然ではないんですね。

この概念は形式的には
弁証法の一部に違いないのだけれど
それを除いたとて
真理に近付くにあまりある
そう云わざるを得ません。

どれだけ
文明、文化が発達し
どれだけ
歴史の過誤を学んでも
紛争は絶えず
胸を塞ぐような
痛ましい事件(原発政策が招く事故含め)があとを絶たないのは
理屈や倫理ではない何ものかが
そこに潜んでいるから。
報復、我慾 …
(勿論、其れを律せるひとが大多数と信じたいのですが)

人間という生き物(自然)が
抱えるやり切れなさ

綺麗事でなくば
哀しいかな
永劫的な世界平和など
恐らく
来ようはずもなく…。
























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【 2017/03/30 19:45 】

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言語と謂う名の壁、翻訳という名の罠
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殊、論理性に深く絡む書物(例えば哲学書の類)
その組み立てが難解であればあるほど私たちは
翻訳に足を取られ
原書で読む必要に迫られるんですね・・・。

拙訳は論外でありましょう
けれど例えば
小さな
極めて小さな齟齬が
論理を阻み誤訳を誘っている場面に直面するたび
痛感せられるのは
哲学は哲学である前に
語学であるという現実であります。
































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【 2017/03/28 23:58 】

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豊かさの在り処
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古典を読むって
各時代でそれをどう受容し
どんな意味を引き出し得たか
その書をめぐる
人間の精神史を紐解くことでもあるんですよね。

そうしたプロセスが
ある作品を古典として形成せしめる
そして、そんな人々の営為にこそ
人間精神の豊かさが潜んでいるようにも感じています。




























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【 2017/03/16 06:02 】

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主語の論理、述語の論理 終章
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こうしてみますと
主語の論理 、述語の論理 は、
従来の様に対立するものでなく
相互に相補し合う思考法であることに気付かされもします。

実際、自己とは理性
これは主語も主語
根本の主語の立場でありながら
自己は、述語(環境、経験、教育)から
成長、育成されるものでもありますゆえ。

相互関係、相互転化
自己への問いかけ
その出発点 として
自己を主語の論理の立場で考えてゆくと
実存に至るということなんですね。

不安定、疎外、(社会に巻き込まれる)物象化に対し
東洋では、述語の論理の世界観へ問いかけることにより
自己の消去その営みから
究極の述語である自然との一体化に至るという
生命観でありました。

そして今、現実に照らすなら
日々直面する生活、あらゆる事象に対し
そこで安らげる何かを信じる(盲信)のでなく
やはり学び、考えるという姿勢
それなくば、自己の(安定)深まりもなく
そのプロセスからの発展を望むべくもない訳で。

個々の人生は
運命とは違うんですね。
それを支えるのが
東西に交錯する歴史であり思想であろうかと・・・。


















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【 2017/03/13 09:45 】

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主語の論理、述語の論理 Ⅵ
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指向目標

それは、生(から死へ)の考慮であり
対処であり、その克服と謂えましょう。

ですが、思い、悩み、考える
そのことのなかに
既に、生を開き
克服する道が内包されていることに
私たちは気付くべきなんですよね。

自己充足の叶わない部分
その極み。
換言すれば、運命との調和、死の問題も
個人の受容或いは
宗教任せという側面もありましょう。

ですが、ほんとうに哲学で解決できないものか。
理性での自己完成を諦めねばならないのか。

サムサーラ、流転、輪廻転生を鑑みても
確かに、生の中に死は内包されます。
生なくば死はない訳ですから
生あるものは必ず・・・的論理で
素直に理性で受容可能な問題だと考えます。
(病の苦しみは別途対処せねばなりませんが)
よって此処で、死を問題にすること自体
絶対的不可能と戦う愚かさ・・・的印象は拭えません(涙
(これを受容できるか否かの問題でしかない)

また、輪廻転生の
死からの生は、そもそも論理矛盾。
(ないところから何も生まれませんから)

是、(個々の内省的営みないし努力であり、自己の確立というより安定なくば無意味でもある)哲学的理論によれば
超越(永遠の存在)は自己の生の中に在りますが
死は、上記の様に何れの場合も悩む次元にない
怖れるに値しないものになる訳で

問題を単純化して考えれば
死から生を考えても意味のないことを先ずは受け止め

方や、生は、既に死を超える道を内包しているんですね
その意味で
死は、生に転化させることができる

自己の立場と
自己を消去してゆく営みへの技術で
生を充実させてゆくという理性的にして
至極シンプルなこの道筋を
やはり私は美しいと思います。













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【 2017/03/12 22:45 】

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主語の論理、述語の論理 Ⅴ
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自己の自覚、そこでの問題意識は、
社会の中の自己として高度で自由な意識となり
自己の立場から社会への問いかけへと変わってきたんですね。

そこでなぜ、哲学かと謂えば
哲学の役割、その論理性。
で、この論理性こそが、世界の思想を
理論的に交流させることができるからなんですね。

ですが日本を含む東洋の文化は
ある程度までの論理化はできても
西洋思想史のような
展開、その系統付けが難しいんですね。
思想史は基本、展開過程が基準になりますゆえ。

まして文藝、文学から捉える思想は
理論化がし辛い。

ですが、目を凝らせば、理論を越えた特性が
そこには沈潜しています。
ですのでそれそのまま
生活史展開の場で成立した文化の営みの研究となり
結果、西欧でなされてきた思想、文化、歴史の分野を
交錯させても来たわけで
こちらは広義の哲学となりましょう。

系統だった哲学を持たない東洋では
それが、上記の如く
文藝文学に投影され受容されて来た
こと詩歌に謳われた自然観として。

そんな文藝、文学の有り様。

個別の哲学でなく、世界人類共存のための
グローバルな視点での
目的理論の成立を
時代は必要としている…。




格差の激しい現状もまた、
そのまま不安の徴候となって…。











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【 2017/03/11 12:51 】

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