倫理による正義、自然による不正義
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正義は倫理的な見方ができても
不正義は
倫理だけでは測れない
何故なら
それは自然が引き起こすものだから
と言った趣旨で
ヘーゲルとマルクスが
一致を見るのはたぶん
偶然ではないんですね。

この概念は形式的には
弁証法の一部に違いないのだけれど
それを除いたとて
真理に近付くにあまりある
そう云わざるを得ません。

どれだけ
文明、文化が発達し
どれだけ
歴史の過誤を学んでも
紛争は絶えず
胸を塞ぐような
痛ましい事件(原発政策が招く事故含め)があとを絶たないのは
理屈や倫理ではない何ものかが
そこに潜んでいるから。
報復、我慾 …
(勿論、其れを律せるひとが大多数と信じたいのですが)

人間という生き物(自然)が
抱えるやり切れなさ

綺麗事でなくば
哀しいかな
永劫的な世界平和など
恐らく
来ようはずもなく…。
























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【 2017/03/30 19:45 】

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言語と謂う名の壁、翻訳という名の罠
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殊、論理性に深く絡む書物(例えば哲学書の類)
その組み立てが難解であればあるほど私たちは
翻訳に足を取られ
原書で読む必要に迫られるんですね・・・。

拙訳は論外でありましょう
けれど例えば
小さな
極めて小さな齟齬が
論理を阻み誤訳を誘っている場面に直面するたび
痛感せられるのは
哲学は哲学である前に
語学であるという現実であります。
































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【 2017/03/28 23:58 】

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豊かさの在り処
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古典を読むって
各時代でそれをどう受容し
どんな意味を引き出し得たか
その書をめぐる
人間の精神史を紐解くことでもあるんですよね。

そうしたプロセスが
ある作品を古典として形成せしめる
そして、そんな人々の営為にこそ
人間精神の豊かさが潜んでいるようにも感じています。




























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【 2017/03/16 06:02 】

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主語の論理、述語の論理 終章
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こうしてみますと
主語の論理 、述語の論理 は、
従来の様に対立するものでなく
相互に相補し合う思考法であることに気付かされもします。

実際、自己とは理性
これは主語も主語
根本の主語の立場でありながら
自己は、述語(環境、経験、教育)から
成長、育成されるものでもありますゆえ。

相互関係、相互転化
自己への問いかけ
その出発点 として
自己を主語の論理の立場で考えてゆくと
実存に至るということなんですね。

不安定、疎外、(社会に巻き込まれる)物象化に対し
東洋では、述語の論理の世界観へ問いかけることにより
自己の消去その営みから
究極の述語である自然との一体化に至るという
生命観でありました。

そして今、現実に照らすなら
日々直面する生活、あらゆる事象に対し
そこで安らげる何かを信じる(盲信)のでなく
やはり学び、考えるという姿勢
それなくば、自己の(安定)深まりもなく
そのプロセスからの発展を望むべくもない訳で。

個々の人生は
運命とは違うんですね。
それを支えるのが
東西に交錯する歴史であり思想であろうかと・・・。


















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【 2017/03/13 09:45 】

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主語の論理、述語の論理 Ⅵ
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指向目標

それは、生(から死へ)の考慮であり
対処であり、その克服と謂えましょう。

ですが、思い、悩み、考える
そのことのなかに
既に、生を開き
克服する道が内包されていることに
私たちは気付くべきなんですよね。

自己充足の叶わない部分
その極み。
換言すれば、運命との調和、死の問題も
個人の受容或いは
宗教任せという側面もありましょう。

ですが、ほんとうに哲学で解決できないものか。
理性での自己完成を諦めねばならないのか。

サムサーラ、流転、輪廻転生を鑑みても
確かに、生の中に死は内包されます。
生なくば死はない訳ですから
生あるものは必ず・・・的論理で
素直に理性で受容可能な問題だと考えます。
(病の苦しみは別途対処せねばなりませんが)
よって此処で、死を問題にすること自体
絶対的不可能と戦う愚かさ・・・的印象は拭えません(涙
(これを受容できるか否かの問題でしかない)

また、輪廻転生の
死からの生は、そもそも論理矛盾。
(ないところから何も生まれませんから)

是、(個々の内省的営みないし努力であり、自己の確立というより安定なくば無意味でもある)哲学的理論によれば
超越(永遠の存在)は自己の生の中に在りますが
死は、上記の様に何れの場合も悩む次元にない
怖れるに値しないものになる訳で

問題を単純化して考えれば
死から生を考えても意味のないことを先ずは受け止め

方や、生は、既に死を超える道を内包しているんですね
その意味で
死は、生に転化させることができる

自己の立場と
自己を消去してゆく営みへの技術で
生を充実させてゆくという理性的にして
至極シンプルなこの道筋を
やはり私は美しいと思います。













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【 2017/03/12 22:45 】

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主語の論理、述語の論理 Ⅴ
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自己の自覚、そこでの問題意識は、
社会の中の自己として高度で自由な意識となり
自己の立場から社会への問いかけへと変わってきたんですね。

そこでなぜ、哲学かと謂えば
哲学の役割、その論理性。
で、この論理性こそが、世界の思想を
理論的に交流させることができるからなんですね。

ですが日本を含む東洋の文化は
ある程度までの論理化はできても
西洋思想史のような
展開、その系統付けが難しいんですね。
思想史は基本、展開過程が基準になりますゆえ。

まして文藝、文学から捉える思想は
理論化がし辛い。

ですが、目を凝らせば、理論を越えた特性が
そこには沈潜しています。
ですのでそれそのまま
生活史展開の場で成立した文化の営みの研究となり
結果、西欧でなされてきた思想、文化、歴史の分野を
交錯させても来たわけで
こちらは広義の哲学となりましょう。

系統だった哲学を持たない東洋では
それが、上記の如く
文藝文学に投影され受容されて来た
こと詩歌に謳われた自然観として。

そんな文藝、文学の有り様。

個別の哲学でなく、世界人類共存のための
グローバルな視点での
目的理論の成立を
時代は必要としている…。




格差の激しい現状もまた、
そのまま不安の徴候となって…。











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【 2017/03/11 12:51 】

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主語の論理、述語の論理 Ⅳ
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物象化が呼び寄せる人間たちの苦悩
もっと謂えば
現代に生きる私たちの不安って
寧ろ保障、確立前提ゆえに
そこからの疎外感として生まれると謂えなくもありません。
そしてこの問題こそが
実存主義となって浮かび上がって来たんですね。

(最初に実存を明確に指摘してきたのは
19世紀半ばのキルケゴール、ニーチェ
(取り分け、児童文学の国デンマークのキルケゴールには
アンデルセンにも似たあの痛みがあったんですよね。)
そして20世紀中葉大戦後のフランス
サルトル、カミュらへ受け継がれていった。
日本に輸入された実存主義は
この期の思想家、文学者の立場によるものなんですね。
そして必然、文藝作品へと投影されてゆきました。
よって、そうした作品群に向き合うことで
そこに潜む思想は
読み手に
その人生観から社会観を経て世界観、歴史観に至る
指向本来の生きるチカラを齎してくれる・・。

このように、
藝術のなかでもとりわけ哲学に近しい文学ではありますが
論理によって成り立つ哲学に比して
言語、文章表現で成り立つ文学なれば
論理的理解でなくて
感覚、感性、想像力、ときに直観によっての共感で
受容することが本来の在り様なんですよね。
また、だからこそ
私たちは心、意識、精神作用に影響を与えられ
時に自ずとある思想がカタチ創られてもゆく・・。

時代の洗礼を受け、読み継がれてきた文藝作品の中には
心、意識、精神、風潮、気概を
知る、感じる、捉える
その素因が含まれているようで
実際それらの構造には
共通性、共感性あり
継承性、発展性が備わっているようであります。

結え、文藝作品は、時代を越え、環境地盤を超え
世界の作品群の中から
或る思想的付加価値を受容することが叶う類の
偉大なる芸術かと・・・。















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【 2017/03/10 08:58 】

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主語の論理、述語の論理 Ⅲ
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俯瞰で見詰めれば
東洋の”ない”から
拭いきれなかった負の側面
その自閉性に胸が痛む。
けれど、それは
西洋の”ある”によって目覚めさせられたんですね。

         *

生命観に照らせば
ー死は生のなかにありー
哲学に照らせば
ー超越は内在するー
訳で。

”ない”は
あるのなかにこそ
宿るもの。
実は、”ある”こそが
大前提なんですね。

であれば、ふたつの生命観
ある(生)とない(空)
両者を自己内で一体化させる道
それこそがあるべき 
生命観でありましょうし
此れこそが
私たち現代哲学(日々の営み)の根本課題なんですよね・・・。

















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【 2017/03/09 16:10 】

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主語の論理、述語の論理 Ⅱ
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先の記事のように
西田の哲学的根拠を待たずとも
この
日本古来の哀愁に満ちた美しい概念
非存在への深い配慮を
私たち(日本文化)は無理なく受容してきました。

また、彼の説く”述語の論理”
非存在(ない)からの存在(ある)への指向性さえも
身体に染み付いてるように見受けられます。

ですが西田のような
(異なった文化圏であっても理解できるべく)
哲学的眼差しで宥れば
其処では”自己としてのある”がどうしても希薄なんですね
それが、彼の憂う
”ないの文化”の弱点であり、不明瞭さの所以にもなりましょう。
併し乍ら、ハイデガーが行き詰まったように
”ない”は ”ないの文化”から考えなければ
真なる理解は叶わないというのもまた
事実のようであります。

主語(はじめ)の主語の研究と
述語の究極段階の研究と
ざっくり二極分化して来た思想界にあって
20世紀を迎えるに前後して西洋では
この”ない”の問題が起こりましたよね、
世に言う実存主義哲学であり
西洋思想に根本の反省が与えられてゆく…。
(日本の戦後実存主義に比して深刻さがありました由)

そして(というか、だから)
生命観にも重なりゆく
大乗仏教の根本、空の思想 。
こちら、古代インドはサンスクリット語の漢字訳であったようですが
此処で
”色即是空、空即是色” (形あるものは空 、空こそ形あるもの)
が想起されてまいります。
是、西欧哲学風に語るなら

ーー色は空の現れ
      空は色の中に宿る ーー
といったところでしょうか。

さらに哲学用語に換言するなら
ーー”空”は超越であり、あるを超えた”ない”
であり
その”空”は”ある”からの問いかけ、
”超越論への道 ”ーー
になってしまうんですね(涙

”空”はあくまで
ない からの ない
であり
ブッタのパーリ語からの伝承
それは、大いなる死 であり

ーすべてのものは過ぎ去ってゆくー

当に、法顕の名訳、名文
諸行無常 であります。


ない の起源 を見詰めるたびに
胸を去来するは
日本古来の
生命への あはれ の美観。

それは、
西洋の実存をも包み込む
安らぎなる高次元での ない であり
優れて豊かな思想表現と云えませんでしょうか。















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【 2017/03/06 17:16 】

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主語の論理、述語の論理 Ⅰ


日本では20世紀初頭
九鬼の訳に始る 実存 の概念は
アリストテレス”主語の論理”の立場(実在)からの系譜

そして、かつてのプラトンが唱え西洋思想に沈んだ
”述語(イデア)の論理 ”こちらは
(お気づきの方もいらっしゃるかもしれませんが)
日本古来の自然観に近しいんですね。

こうした眼差しで思想史を見渡すに
西洋は”主語の論理”傾向にあり
自己は、国家観 、社会観
世界人類共同体への理念、論理を開く
といった精神構造。

東洋は”述語の論理” 傾向で
自己は(究極の述語)儘、全自然、自然生命観となり
”もののあわれ”という精神的態度となって
自然と一体化しゆく思想性。

”主語の論理”も”述語の論理”も
いずれも存在根拠の追究には、違いないんですね。
ですが、存在、非存在という視点でみれば
好対照の思考態度と謂えましょう。
(強いて言えば、ハイデガー。彼は西洋に於いて数少ない非存在に
注心して論理展開をした人物ですが
それでもその非存在は、
あくまで”存在の否定”でしかなく
”存在”の域を逃れることは叶わなかったんですよね。)

かの西田の書には
”非存在を考慮した思想”で貫かれた東洋の文化への
こんな記述が残されていまして
それが私の胸の奥に沈潜してその場所を譲ることがありません。

ーー形相を有となし
形成を善となす西洋哲学の絢爛 には、
尊ぶべきもの学ぶべきものが許多なるは、云うに及ばないが
幾千年来の我らか祖先を育みつつ来た、東洋文化の根底には
形なきものの形を見、声なきものの声を聴く
といったようなものが潜んでいる
我々の心はかくのごときものを求めてやまない。
私はかかる要求に哲学的根拠を与えてみたいと思うのであるーー



















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【 2017/03/05 07:28 】

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愛しき日本思想
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先の記事で日本思想史の原型(古事記、日本書記)
に触れましたが
世界の名だたる思想群なかでも
その顕著な特徴、それは
そこに通常浮かび上がる筈の
座標軸が見られないということ。
(文献上の問題もありましょうけれど)

座標軸の不在
それはそのままに雑種性であり
多元主義の議論であります。


神道とはそもそも
思想的に雑多な感は拭えませんが
好意的にみれば
”無限なる抱擁性”を備えているとも云え
それこそが
日本思想を伸びやかならしめてきた
と見做すこともできましょう。

強靭な基軸を持たないがゆえ
絶対的存在がないという
ある種の微笑ましさ。


日本固有の思想に相埃って
儒教、仏教、法家などの
構成要素を俯瞰で見詰めるに
日本思想の原型では
作為のウェイトが極めて低いんですね。
で、生成のカテゴリが中心になっていた。

それが軈て自然、生成、作為の
三分法的思考様式へと変遷して…。
(そう考えてみますと、英国経験論に近しいと
いうことも垣間見えても参ります。)


古事記来の
そうした日本思想の流れを鑑みるに付け
そのたおやかさを
愛しいと思います。
















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【 2017/03/01 19:53 】

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2月21日のあなたへ〜古代、中世、近代、現代、どの時代区分とて抜きには見えてこないもの
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西洋近代の人間学(神学に対しての言葉です)は
キリスト教神学的思想と不可分な関係性の上に
構築されてきましたから
江戸時代後期から明治初期の知識人たちは
そうした思想を持たない日本人に
西洋の理論体系を紹介するに
困難を極めたんですね。

そのひとり、福沢諭吉。
彼の“西洋事情初編”からの
”アメリカ合衆国独立宣言”に含まれた
“God”の訳語は“天”でありまして
(明らかに概念を異にする訳ではありますが)
*人間の作為を越えている*
という意味合いを以ってしては
見事な訳語であり、
是をして西洋の近代人間学は
意外と正確に日本に導入されて来たんですね。
(こちらニーチェ以前、AC以降の西洋哲学を読み解く
ヒントにはなりませか?)

その後の“学問のすすめ”初編では
(世界の概念輸入のための辞書編纂を迫られる環境にありながら)
ヨーロッパ中世のキリスト教的世界観から
近代人間学に移行する過渡期の思想が
綺麗に日本語に表現されていて
感動致しました。

            *

新たなる知的体系
西洋の人間学を
導いてきたふたつの異なる思考様式。
そのひとつが理性を信頼してやまない
デカルト、ヘーゲル、
(プラトン、プロティノスの系譜による)ホッブズ、
(組織の意図的コントロールというサン・シモンの流れを汲む)マルクス、エンゲルスらが為したように
神の位置に人間の理性を置き換えることで
人間理性の作為によって議論を展開する合理論的人間学。
もうひとつは、ヒュームやスミスに代表される
理性にウェイトを置きながらもその限界をしっかりと認め
経験を最重要視し
生成のカテゴリーを軸に探究する経験論的人間学。

福沢が何れの思想性によったかは
その書からは読み取れませんでしたが
少なくとも
社会を作為するのは人間とした視座は見て取れ
尚、形而上的に非ず
実際的なそれに関心を寄せていた記述から
経験論的立場にあったことは垣間見えてはいました。

             *

そうした思想史の狭間のなかで
想起されて参りますのが或る語らい、
それは父の父の恩師だったという
穂積陳重氏の姿勢でありました。

氏は、日本で初めて
法律を体系的に論じた法学者とされ
日本思想の原型に
儒教、国学の影響を強く受けていた人物
そんな彼が現在を見据え
自然法主義の法律学から
あくまで“進化する自然法”を説いたその背景には
往時、輸入したばかりの
経験論的人間学を上手に受容された経緯があったんですね。

自然法論(自然)と法実証主義(作為)を
歴史法学(生成)に解消、融合させることにより
法律進化論なる法理論を展開せしめたのは
(古典が内包する見えざる付加価値)
取りも直さず、優れた理念、思想が紡ぎ出してきた書物を
広く読み込み
それらが必ずや内包する時代の価値観の違いや
その瑕疵に足を取られることなく
本質を掬い取ることでしか得られない学びであった訳で
その真摯にも積極的(貪欲)な知へのスタンスに尊敬が止まりません。






































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【 2017/02/25 00:51 】

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宥和にして融和の道


古代ギリシア人の在り方に起源をもつ
西洋の文化主義的立場と
私たち東洋なる自然主義の立場。

世界文化学的哲学の二つの大きな潮流
端的にそれは
抽象現象に謂う超越を内在させ
切り開く人生と
自然に委ね自己を安らわせる調和の人生と
換言できましょう。

いずれが是とか否とかの議論でなく
大切なことは
努力の及ぶ範囲か其の先かの
丁寧な見極めに添った
融和の道でしょうか…。

















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【 2017/02/21 18:22 】

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視野の相対化


深い記憶構造のなかに
ある論理を以て浸透し
音もなく降り積もる学びの跡

それは軈て
視野の相対化を齎し
直観力を鍛えるという…。












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【 2017/02/11 22:03 】

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殻のなかで…実践 徒然〜バランスを考える
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達成だとか成績だとか
遂行を意味するパフォーマンスは
一方で
演奏や演技など
カタチを実現すべく身体的行為をして
使われることも少なくありません。

語源(中世英語)に照らせば
前者的意味合いに即してはいるようですが
両者の用法はそのまま
クオリティの対比となってあらわれているよう

と申しますのは
対象の評価、その根拠を
クオリティ全体に重きを置くか
パフォーマンス全体に求めるか
と言ったような。

そう致しますと
想起されるのが
哲学史に云うところの
アリストテレスの3分類由来のひとつプラクシス。

此処では
実践に対する理論の優位性が説かれていた訳で

そこに疑問を提し
価値逆転による実践優位のもとに
両者の統合を主張したのが
かのマルクスだったんですよね。
(弁証法への過信があったことは否めませんが)

ー感性的実践は認識となり
それが理論的認識の基礎とされるー

こちら取りも直さず
具体的人間活動が
社会的実践にあるとする考え方であり
人間とは社会関係の総和であるとする
彼の立場を如実にあらわしてもいます。

感性的実践は  
そのまま感性的認識となり
認識はまま、実践となる…
そうしたなかで
私たちが気をつけなければならないのは
個々の実践のなかで
現実の実態性が開示される
その契機をしっかり捉えることなんですね、

理論と実践といった
安易な二元論に落とし込まれないために。

実践に傾けば当然ながら
近視眼的になり局所解に至るリスクは避けられませんし
理論(知識)に寄れば
具体的成果に危うさが残る
よって私たちはいつの時も
バランスを失わないよう
心掛けることが
大切ということなんですね…。


※そして
サルトルの弁証法的理性批判
彼は
マルクス理論に在る、或る論理の飛躍を
埋めようとしたんですね。

故、人間の欲求を基点に置き
そこに促され
個人的実践から共同的実践へと至る全体化を考えた。

惰性でなく
意思による運動、
其れこそが実践であり
投企であります。

例え対象が努力の向う側にあったとしても
それを肯定し受容する精神活動は
消極概念には当たらないと
私は信じています。














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【 2016/12/18 21:57 】

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フィールド・ワーク〜パトスの知
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アリストテレス倫理学に語られたpathosは
様々な感情 の類を指していたようですが
今日パトス的と言えば、
受動的といったニュアンスで
遣われることが多いよう

私たち人間は
外界からの働きかけに身をさらしながら
生きる他手立てはない訳で
それによって齎される感情に振り回され
結果、否が応でも
パトス的存在なんですよね。

近代科学は
そうした自然(環境)を対象化し
その分析による知を以てして
法則を見出し
その支配さえ意図してきた側面は否めません。

まして
文化的所産のなかでも
選れて科学
その発展にリミットはないようにも見受けられ
自ずと頼ってしまっているようなところもあったりで。

ですがやはり
其処に限界はある訳で
私たちは時に
厳しい現実に曝される…。

そうした生を眺るに
パトスの知を捉えることの
大切さを考えずにはいられない。

そう、私達は
努力の外側
決して避けて通れない
広義の意味での自然を受け入れるべく存在
であることを自覚し
状況が齎す苦難
その痛みを肯定出来ることで
科学的知のような
自然との冷ややかな対立から解き放たれ
内奥に潜む生の重層性を読み取り
意味づけ
対処してゆくという
濃密な時間を構築することができる……
謂わば五感に統合される
生き生きとしたパトスの知

もっと言えば
フィールドワーク
知の働き。

客観主義でなく
主体的、行為的にコミットし
普遍性によらず
潔く責任を負う立場で
今を生きる。

そして
論理主義や原子論に囚われない
総合性、共有感覚によって
深層の真理を模索する。

確かに
経験は論理に比して
曖昧には違いない

けれどこうした知こそが
チカラになる局面って
必ずくるのかと……。

















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【 2016/12/15 18:55 】

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アイデンティティ(identity)〜“役割”を想って…
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オフィスでの雑談のなかで
日本論にも近い
national identity の話題になったんですけれど
そもそも
“identity”の日本語訳が
以外にややこしいんですね…。

ひとくちに語れないと申しますか
領域によって変わってくる

例えば
社会学的には、存在証明
心理学的には、同一性
そして哲学的には主体性
といったような。

なんとか纏めて
自己同一性なんて
訳され方もしてもいるみたい
なんですけれど
結構、掴み處ない感ありますよね笑

仮に雑談であったとしても
少なくとも
歴史的連続性
人格的同一性
というような目線では分けて考えなければ
収拾がつかなくなりそうで。

こちらそれぞれ
フロイトが論じた
“ある民族共通の精神構造から成る心安らぐ私的意識”
とか
ジェームズの謂う“性格”
に準じた概念なんですけれど

前者は、文化共同体への帰属意識的な感覚であり
後者は、自分らしくある根拠(充実感)で、
エリクソンが指摘して久しい捉え方であります。

ですが
彼よりずっと以前から形式論理学に云う
ロー・オブ・アイデンティティこと
同一律がありました。

所謂、身分証明、身元保証の類。
極めて原初的概念でありながら
否、であるがゆえ
最も端的にアイデンティティを
知らしめてくれてもいるみたいなんですね。

仮に、手元に身分証がない時に(取り分け海外で)
私達は自分をいちばん知り得る立場にありながら
他者にそれを証明できない
そうしたパラドクスに陥ります。

此処で求められるのが
共同体の中での立ち位置。
社会的関係性ですとか
家族の相補的アイデンティティ(父、子、妻など)

そうなんですね。
アイデンティティには
他者が必要にして不可欠のようで

言い方を変えれば
他者との関係性に於いて
初めて現実化されてくるもの
それがアイデンティティ
と言えなくもない。

よって
アイデンティティと役割には
切り離せない
密接な関係がある

結え
信じる道を自分らしく生きるためにも
改めて
自らの役割を思ってみたりもする訳です…。






















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【 2016/12/06 22:38 】

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“美しい”を愛して Ⅶ
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美の本質を数に求めた
アウグスティヌス
その美学思想は
キリスト教的世界観と
ピタゴラス的な宇宙観を担った概念で
数を
理性的精神的永遠不変なる
美の象徴と
見做したもの

不完全で移ろいやすい
自然美、芸術美にはない
揺るがない確固性がそこにはある

理性が、己と同質なる数を求めるように
数は理性に適合するのだ

魂と美は相互に補足し合い愛し合う

ビジュアルでない
深奥なる美

古代より継承されし
アリストテレス的な法則性と
プロティノス的な神秘性という
二つの美学を抱括する概念…。























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【 2016/10/30 19:35 】

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“美しい”を愛して Ⅵ〜エーゲ海にゆく陽から

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ところが
プロティノスには
近代的美学の萌芽も認められる

芸術作品が美しくあるためには
それが
単なる模倣であってはならず
自然美を成立せしめる
ロゴスを見極めた
写実の根本原則に依る必要があると。

となれば
東洋の山水画論も
想起されて・・・


















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【 2016/10/29 21:17 】

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“美しい”を愛して Ⅴ~ヴェニスの月光の下に
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そして
プロティノスの美論

叡智美の観照。

根源美的
プロティノスの神学との融和
その神秘性。

美に於ける神秘性は
拒絶し難いものがあります。

分かり易い合理的美学にでなく
説明のつかない類の中にこそ
核心が秘められている
そんなふーに感じています。


























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【 2016/10/28 09:21 】

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“美しい”を愛して  Ⅳ~古代ギリシャから
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最初のひと

イデアという究極の存在を
根本思想に置いたプラトン

その美の純粋至高性を捉えるのは
知的直感のみ

高次の美を求めて
純化の階段を上昇し
感覚的世界を超越した存在
とるする立場

彼より遥かに現実的路線をゆく
アリストテレスは
芸術
その心理的効果を分析したんですね。

最たる美は
自然の中にあれど
或る統一原理に基づて統合された美
自然が実現し得ない美を
芸術作品が実現すると…。

例えば
自然の生成原理から
彫刻家が導き出した人体美のカノン

例えば
潮騒、小鳥の囀りの先に
旋律を、ハーモニーを創造し
音楽へと…

確かに
芸術が内包する
精神への浄化作用は
はかり知れない

深きカタルシス

美の客観的法則を求める
古代ギリシアの合理的精神。
























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【 2016/10/27 08:58 】

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“美しい”を愛して Ⅲ~古代ギリシャから
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ヨーロッパでの美学の成立は

美の包括的研究として
哲学体系を樹立せんとした
18世紀の
バウムガルテン
彼の感性認識論
エステテイカ(美学)にはじまりましょうか。

エステテイカは
そもそも
感性的認識学の意であり
感受性に拠って美を捉え

一方の知性に拠って真を把握する
悟性的認識の下位にくるものでありました。

然し乍ら
彼の研究を待たずとも
それは遠く古代ギリシアの時代に
その萌芽を見せていたんですね…。



























【 2016/10/25 21:18 】

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“美しい”を愛して~西洋から東洋へ Ⅰ
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美は
実生活から遊離した
抽象的概念なんかでは
ないんですよね・・・

机上の空論から
究めゆくものではなくて

そう
美は
実在であります。

共に在り
時に
私たちを包み込み
心の内に沁み通って来てくれる
親しきココロの友であります。

さながら
愛するひとのように

慰め
安じ
見守り
勇気付けてくれるもの

そうした“美”なしに
どんな
人間らしい生活がありましょうか。

美を離れて
生は満たされず
幸せは成立しないと…。

愛するひとを想わないでは
いられないように
私たちは
美を想う。

美に感動し
美を愛し
その美へ
尽きせぬ想いをめぐらす

美学者、哲学者が如く
冷たい理性のみでは
分析できない
美なる世界観は

学的客観性と
”美しい”を愛すること
そのもの。

”伝統”に並んで
空間に浮遊する概念とは別趣の

確かな実在に存ずる性質
そうした美をほんの少しだけ
考察してみます。



























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【 2016/10/13 01:43 】

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意識の単音〜最高度のもの
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ーー芸術家にとっては
色彩も
花束も
珈琲を掻き混ぜる
スプーンの音も
最高度にものであるーー

そんなサルトルの
メッセージ

それは
ゴルゴダ上空の
あの檸檬色の裂け目が
哀しみや
苦悩の喚起でなく
ただ
在る
が如く
ひとの意識を横切るにも似て…




ただし

最高度の空
として。








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【 2016/09/24 21:10 】

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或る詩学 Ⅻ〜現象学的地平に立って…
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一般に
現象学的と云えば

対象の現実を
一元的でなく
多元的に
把握しようとする
基本的立場を指しましょうか。

ですが
私的には
規範的パラダイム
に非ず
現象学的パラダイムの不可欠性
を意図する感覚が重なります。

相対的視点
客観的客体
実在論への疑義…。

ハイデガー経由の
サルトル的実存哲学にも似たレヴィ・ストロース
とは
一線を画した
現象学的地平に立つこと

それはそのまま
深層の遊戯であります。

そして

選び取る言葉の質が
私たちの意識の質を
どのように
規定してゆくかに思いを致す必要は
あるだろうと思うんです。

空間的オリエンテーションが
ある意味と意義を
決定するかのように…。

























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【 2016/08/14 18:08 】

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或る詩学 Ⅺ〜言語の弁証法的対立その理論的背景に…
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社会がパロール(言葉)を制度化してゆく訳ですが
知性化のプロセスは
標準的言語に負うところ大きいんですね。
なぜなら
言語は抽象化されることによって
精密さを
的確さを
備えるから。

そしてその先。

純粋に形式を問題にする
言語分析研究は
機械化、標準的基範、秩序、
既知のもの、中心性へと向かい

言語美学の展開を分析する研究は
活性化(此処で云う活性化は隠喩と本質的に同一)
異化、反秩序、詩的言語、美的機能に流れる
こうした、謂わば
芸術にも似た理論装置が
文化の基底に潜在的に存在している。
(この観点から出発したのが
かの知的モンタージュ理論であります)

弁証法的対立(緊張感)をみせる両者の
その理論的背景を見渡しますと

文脈を異にするふたつの概念は
しっかりと
互いに照射し合っているという
深淵が見えても参ります。




















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【 2016/08/13 22:46 】

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或る詩学 Ⅵ〜ポー/意外性の弁証法
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想定されるなかに
予期しないものが立ち現れる愉しみを
詩のメトリーと
心理的立場から
最初に説明したのは
ポーではなかったかと思うのですが

謂ってみれば
こちら
意外性の弁証法であります。

新しい扉を開いてくれる
詩的言語は
いかにも
他者性を開示するようでいて
“構成上不可欠の他者”
即ち
自身が
本来的に持ち合わせていた場所に
導かれただけ

詰まり
私たちは
そこで再創建され
全体性に赴かされるんですね。

そして
人間存在の真の条件に
またひとつ近付いてゆく
そんな見方もできるわけです。




















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【 2016/08/08 06:05 】

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或る詩学 Ⅴ〜言葉を超えた記述体〜ボードレール
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哄笑(哄然)は、人間存在の証
そう述べたのは
かつてのボードレールでしたが

微笑が存在の二重性の導とするなら
哄笑は
時に
対立を否定しながらも
統合させ
始原的混沌(遊戯性)への
還帰さえみせる
ひとつの隠喩とも言えましょう。

こちら
忽ちにして
五感に働きかけてくる
藝術の
深層コミュニケーションに
似てもいます。

そして
こうしたときに
私たちの記憶は
帰還可能な過去
そのものにも成り得る。

文化の相対的な文脈のなかで
もっとも深い意味での
実在性を有する身体に訴えるものであります。

緊張関係のもとに成立する文化を
こうしたカタチで捉える方向性は
シュールレアリスムにも
象徴主義にも
通じましょう。

歴史を構成するあらゆる層に
斬り込める
ひとつの
記述体として捉えています。




















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【 2016/08/07 18:55 】

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或る詩学 Ⅳ〜思考拡大の必要性〜イメージ/類似性/メタファー
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イメージは
想像力に喚起され

そのイメージを構成する
言語表現は
修辞によって
分類できます。

例えば
暗喩
例えば
直喩
時に
パロノマシア
時に
寓意、象徴から
言葉遊びまで
さまざまに。

ですが、
そのいずれもが
語句の統辞論統一を守っており
意味作用における
重層性を確保しています。

そして
イメージのもつ最も
顕著な部分
”矛盾律に挑める特性”
を生かしつつ
私たちの思考を拡大せしめる。

これが
俗に言う
メタファー
であります。

さらに
そのメタファーは
類似性(感応)
を前提に成立しますから
それはそのまま
意味作用の沈殿を齎します。

そうして

意味が新しく生まれ来る
その地平を
探り始めるんですね・・・。


















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【 2016/08/06 23:14 】

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或る詩学 Ⅲ〜歴史(過去)は循環的ディスクール
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歴史は
いつのときも
通時態

多重性を秘めた
深層構造

そして
過去に存在するもの

にも関わらず
時の流れに
消え去ることなく
耐えず
還帰し
現在に顕れるたぐいのものでもある
その不思議。

それは
隠れた現在
であるが故に
再び出現する

神話が
ある反復と変種による
循環的ディスクール
であることにも
似て・・・。













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【 2016/08/05 09:32 】

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