ジャコメッティ~コクトー/サルトル/ストラヴィンスキー/ミロ/ダリ/ドランピカソ~シュルレアリスム~ドイツロマン主義~古典主義/ゲーテ~ヘルダーリン~エジプトアマルナ~ビザンツ美術~アッシジ/チマブーエ~ライウニッツ/モナドロジ/
潮風に揺れる葉音も心地よい恵みの樹々を擁する
葉山の丘の麓に
海の見える美術館
神奈川近代美術館があります。

080707.jpg

20世紀半ばに活躍したスイスの彫刻家であり画家でもある
”ジャコメッティの勇気”に出会った場所です。

コクトーにサルトル、ストラヴィンスキー
ジャンルを超えた一流文化人らとも交流を深めたというジャコメッティ。

ミロにして”厳格”
ダリにして”非現実的”
ドランにして”縮退”とまで評させ
シュルレアリスムにも安住できず
サルトルも驚愕した彼の”挑戦”


究極の集約とも謂える
タイトなフォルム
あたかも
消えゆく途上・・とさえ感じさせる結か
凄まじいまでの存在感・・・。

彼が生涯を賭して追い求めたもの
それは
端的に謂えば
”知覚したものを表現した時に生じるギャップ”を埋めることでありました。

自らが表現しようとしているものと
自らが表現した作品
その迫間で彼は憂苦しました。
どこまで突き進んでも
決して重なり合わない
何ものかに阻まれるということに・・。

ジャコメッティの目指した”統一”
当初は写実主義の誤謬への挑戦であったかもしれません。
彼の中に息衝くもの
それは内向きなドイツロマン主義であり
ゲーテやシラーに代表されるドイツ古典主義であり
或いは汎神論的文学世界を構築したヘルダーリンであったものでしょうか
・・・・・
エジプト美術のアマルナ様式に、
ロシア的なそれをも内包するビザンツ美術に
アッシジのチマブーエに
デューラーに、レンブラントにも傾倒したというジャコメッティ・・

ですがここに
実体概念そのものの論理的側面を考える必要は
あろうかと思うんですね。
ライプニッツの人間知性新論
窓をもたないMonad(予定調和のなかに・・)
これは
モナドロジーの立場に立つライプニッツが
空間を説明するために用意した概念です。

ー認識は主体と客体の間に生じる作用ではない、故直観でも経験でもないー

彼の普遍学構想が脳裏を過ります。

見えてくる不可能性・・・

それはジャコメッティが一時期対象に重きをおかずに
記憶によって作品に挑んだこととも無縁ではない様に思うんですね。

どこまで追求するのか・・・。

さらにそれは
時の流れにと共に
刻々と移りゆくのものであるのかもしれません。

けれど
この限界への挑戦は彼固有のものでしょうか
それは
表現者の多くが潜在的に持ち合わせている
内部葛藤の原点であり
その極みであろうかとも
思うんですね。

いつの時代も
表現者の前に厳然と立ち塞がる壁
孤独な内なる戦い

見えざる実体
不可能性への挑戦
とも云えるものかもしれません

そして
科学の世界における
解明困難ともされる対象への
不撓の研究姿勢にも重なるものがあるように思います。

もっと謂えば
諦めることをしないひとの不屈の精神は
人間の根源的在り方であろうかとも思ってみたりするんですね・・。

不可能性へ立ち向かう無限の運動
その活動そのもののなかに
(自身で一粒の悠然さを失わなければ)
人がひととして得られる最高位とも言える精神の歓びが見出され
また同時に
美しく生きるひとの
在るべき姿がある
それは
生きる力の源泉となりえるものではありませんでしょうか・・・

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※その制作の場は生涯パリのアトリエであったというジャコメッティですが
イタリア国境にも近いという生まれ故郷スイスのスタンパには
彼の小さな博物館があるそうです。
"勇気のひと"
ジャコメッティに逢いに
いつか
チューリッヒの美術館と併せて訪れたいと思っています^^










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【 2013/01/29 17:43 】

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ヘレン・ケラー~ダライ・ラマ~サン=テグジュペリ/星の王子さま~大切なものは目に見えない・・
DSC_0583.jpg

ーー哲学は優しさから造られている
         優しさこそが哲学であるーー

ダライ・ラマの言葉です。

また
ヘレン・ケラーは私たちにこう記してくれています。
ーー幸せとは、視野の広い深遠な知識を持つことです。
     なぜなら真実と欺瞞、高尚なものと低俗なものを
         見分ける力が養われるからですーー

真実と欺瞞、高尚なものと低俗なもの
見えすぎても時に哀しみを引き寄せるようにも思えてしまうのですが
物事の本質が見えてこなければ
あるべき行動すら方向性を誤ります。

一見して別の側面を謳ったような
東西のこのふたつのメッセージの背後に
大切な理念が潜んでいるように感じてなりません。

ヘレン・ケラーの謂う処の”視野の広い深遠な知識”
これはそのまま叡智の翻訳であります。
哲学には必要にして不可欠な概念です。
そして
その哲学は優しさから造られている・・
そう致しますと
優しい心をもつひとは
幸せであるというまた別の側面も垣間見え来ます^^

で、あればその優しさとは・・
多くの場合真の優しさは
優しさだけでは優しさ足り得ません。
優しさだけで到達できない高みがあるからです。
人生、優しさという翼だけでは飛翔できないんですよね
時に厳しさ(負の体験)なくば得られないものが
あるからなんですね・・
ですから優しさという言葉には必然
均衡という概念が含まれているようにも思うんです。
そして哲学もまた均衡(或いは調和と謂って良いかも知れません)
を内包していなければならないかと・・・。

言葉の定義がいずれも曖昧ですから
論理的な説明は不可能で・・・
あとは
心で感じる他に手立てがない
という現実も見えて参ります。


   ”Le plus important est invisible ”
ーーほんとうに大切なものは、目に見えないんだよーー

サン=テグジュペリの”星の王子さま”の作中で
きつねが教えてくれた秘密の言葉。

(敢えて言葉での説明は好ましくないかとも思われるのですが)
例えば”大切なひとの存在”もそのひとつかと。
それは取りも直さず
その対象の存在が
精神的存在であって
物理的存在ではない
ということになるのかもしれません。

理由は簡単です。

不確実性を生きることを余儀なくされている私たちの人生は
あらゆる意味で自分の願うようには生きられないことも多く在ります。
そうしたなかで何かの事情で大切なひとと二度と会えなくなったとしても
その対象が心の中から消えることはないからです。
(逆に無関心な他人と機上で席を同じくしても何の意味も持ちません。)

それは
たったひとつの特別なもの
絆・・・
執着とも換言できるものでしょう
ですが執着の負の側面を極限まで削ぎ落とした
バランスのとれた強き心の在り方かとも思うんです。
愛がひとを強くすると云う真意も
このあたりに論拠を置くのかもしれません。

美しきひとの心には
対象に愛を感じることそのものに
快さを覚えるという感性が備わっています。
ですから
想っても想っても尽きない想いが胸の奥深くに生まれた時
それはあたかも幸せの泉を心に備えているようにも
私は感じるんですね・・・。

もちろん物理的に愛する人と共に在ることは喜ばしいことに違いありません。
けれど
その歓びの本質がどこにあるか
自身の心の深淵を覗くと
共に在る歓び・・愛しさのその先に在るもの
悲しみをも含む愛・・そこにあるその輝きこそ
大切な
目にみえないものであると・・・。

そして同じような理由で
ほんとうに美しいものは
やはり
目に映る類のものではないと
私は思っています・・。

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真の優しさが
その時には判らず
ずっと
後になってから
それと気付かされることと
少し
似ているかもしれません・・。



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【 2013/01/26 12:04 】

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エセー/モンテーニュ~モラリスト/人文学者/懐疑主義者~パスカル/ロシュフーコー/ブリュイエール/プラトン/アリストテレス/プルタルコス/セネカ/ショーペンハウアー
ーー美しい精神とは、
     多様性柔軟性をもった精神であるーー

100117.jpg

パリでモンテーニュと謂えば8区のモンテーニュ通り☆
シャネルやヴィトン、ディオール等のブランドショップや
高級メゾンが立ち並ぶその先に
ヌーヴォー建築のシャンゼリゼ劇場があるのですが・・。
この辺りのカフェを舞台に
妖精のような主人公(ギャルソン)の視点で
華やかなパリのアート(音楽、演劇、絵画)を織り成す人間模様を描いた
”モンテーニュ通りのカフェ”(現代:オーケストラ・シート)なんていう
映画もありましたっけ^^


冒頭の言葉は
フランスのルネサンス期を代表する哲学者
モンテーニュの”Essais”(試み)からの引用です。

モンテーニュが生きたルネサンス期には
人間の本質をギリシアやローマの古典文学に学ぼうとした
所謂ユマニストと呼ばれる人文学者たちが各国で活躍しています。
イタリアではフレンツェの詩人ボッカチオ、君主論のマキャベリ
そしてロレンツォ。イギリスならトーマス・モア
フランスはモンテーニュの他ロワール河畔で生まれた
貴族出身のラブレーなんかもこの範疇かと。

また、ピュロン主義のラテン語訳によりデカルト、ヒューム、カントなどに展開され
形成された認識論を中心とする懐疑論その礎となったのもこのモンテーニュでした。

さらにこの時代のフランス語圏と謂えばモラリスト・・・
パスカルやロシュフーコー、ブリュイエールらの名が知られていますが
現実の人間を洞察しその生き方において思索を重ね
そうした探究理論を断章形式に綴った思想家を指します。
モンテーニュのその在り方は17世紀のモラリスト文学の枠を超えてフランス文学全般に
その系譜は見られるようです。


人文主義者であり懐疑主義者でもあったモンテーニュ
ですがモラリストでもあった訳です。
彼のこの”試み”は
その思想の断片集というカタチで紡がれています
ですのでタイトルも”エセー”
現代で言う処のエッセイです
ゆえ哲学書に不可欠であろうかと思われる
論理的な組織付がなされておりません。
系統的でなく体系的でなく
時に矛盾も観取されます。
けれどひとつひとつのテクスト
想念、存慮、思弁、思惟そして考察・・・
その先にあるものが
凄いんです。

まず
近世の哲学にして聖書の影がありません。
あっても原典程度です。
引用はプラトン、アリストテレス、プルタルコス、セネカ周辺
古代の文献がメインです。

同時代の
パスカルの死後編纂されたという”パンセ”にさえ
その影響が見て取れるように
アウエルバッハではありませんが世界初の
人間の生へのHow to本かと^^

ギリシアやローマの古典、
自由な世界観から思索を広げたモンテーニュ
時代の哲学者にありがちな
宗教哲学、論理学の罠には陥っていません。
寧ろ東洋の老荘哲学にも近しい概念が
全編通して通奏低音のように流れています。
ですから
ニーチェも憧れたというモンテーニュの自由精神は
社会の軛から私たちを解き放ってくれる
メッセージ集といっても過言ではないように思います。

ストアの叡智あり、神なき人間観あり
そして元より因習、弊習、旧態依然とした遺風による精神的桎梏に
厳然と立ち向かう姿勢・・
旧弊的な観念に縛られない相対主義があります。
さらに自然への信頼があり
死の受容があります・・。
そうした思想が
核心を突く的確な表現で記されているんですね・・
結え
清新な勇気がもらえるんです。
現在の自分の想いに重なるフレーズも
散見されます。

他者へは朗らかさを
自身へは智慧を・・
ではありませんが
モンテーニュの人間性も感じさせる
この随想録

そして彼のその考え方が
主観と客観の何れによるかという
二元論に出発した近世の哲学そのものに懐疑を投げかけ
両者を包括した理論の必要性に基づくものであること。
そもそもそうした概念さえなかったギリシア哲学を鑑みますと
古典回帰といえばそうなのですが。
ただ、対象を原理的にみようとする精神の動きに圧倒されます。
瑕疵のない体系的論理性構築を目指す哲学者たちの中に在って

人間ならば誰しも備えている負の特質
それは野心であり
羨望であり時に嫉妬もあるでしょう
さらに迷いがあり、懊悩があり、絶望があります
ですがこうしたマイナスの感情の萌芽でさえ
排除されようものなら
われわれ人間の性状は根本的に破壊されるとした
徹底的な人間への寛容な眼差しのもと
自在な思索を紡ぎ出すモンテーニュの手法は
高邁精緻な哲学理論の追求に相応しい思考状態であったようにも感じてなりません。

人間が人間であるゆえの弱さ
理性では解決できない
自身の心の手に負えなさに対しての考察では、
同じ懐疑主義的立場を取る
パスカルは良く言えば達観、半ば諦めにも近い思考性が
また
ロシュフーコーは極めてシニカルによっています。
”出口なし”のサルトルではありませんが
他者に囲まれた対他存在としての人間存在をして
地獄とは他者のことだとまで言わしめた彼とは
根本的にその世界観が違います。

テクストとは不思議なもので
その行間からは
書き手の人間性が垣間見えてもくるんですよね。
深い誠実性を漂わせているという点では
ショーペンハウアーに近しいものを感じています。

そんな
モンテーニュの生きた16世紀フランスは
ヨーロッパの人口の2/3に及ぶかという程の夥しい死者を出した
ペストも流行していました。
さらには
宗教戦争真っ只中という激動の時代背景です。
モンテーニュは穏健派として
カトリック、プロテスタント両派の融和に努めたといいます。
このような過酷な時代にあっても彼は
終始冷静な眼差しで真実を見据え
形式論で正義を突き通すものには懐疑の目を向けていたんですね。

こうして彼は”エセー”を刊行しますが
それを他者に慫慂する様子はありません
哲学者に在りがちな権威主義的傾向も見受けられません
そこには
柔軟で包容力のある恩師のような教えが息衝いています。

ーー人生は美しい
    朗らかに嫋やかにあるもの
      生きるに値するものですーー

フランスはランス、ルーアン出身の小説家フロベールも言っていました。
”これは生きるために読む書”だと・・。

ーあなたを救えるものは、あなた自身であるー
モンテーニュのこの箴言から私は
自律の精神を学びました・・・。

そして
”この世で一番大切なことは、自分に帰ることを学ぶことである”は所謂名作と呼ばれる
多くの文学の原点であろうかとも思うんですね
そしてあのPamukの小説の世界観にもそれは顕われていました。

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※トゥールーズで法学を学びフランス法官であった彼は
故郷の田舎町モンテーニュ城に戻り随想録の執筆を始めます
16世紀にボルドー、パリ、ルーアンで刊行改版を重ねますが
その後も死の間際まで加筆を続け
以後彼のライフワークとなった書です。
キリスト教に寄らない哲学書ゆえ
17世紀後半には
”無神論の書”とされ禁書となった時代もあったといいます。
当に象徴的な出来事です・・。

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【 2013/01/23 23:16 】

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カント体験~シラー/カリアス書簡~優美~感性と理性の相克~崇高性
美に触れると
改めて
精神の自由を感じる不思議

それは
感性と理性の均衡のもとに成り立つ美が内包するところの
調和が齎す安らぎ
或いは
美に秘められた
精神の浄化作用もあるものでしょう。

朝陽に揺れる可憐な岸辺の草花
澄み切った空の透き通るような輝き
水滴に光を集める樹々の艶やかさ
夕映えの海そのコバルトブルー
自然が纏う優美さは
それを受け取ったひとの心の優美さの反映といいます。

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市場原理に支配される社会
アリストテレスの時代から
社会的枠組みのなかで生きる私たちは
誰しもそのしがらみから
逃れることはできないんですよね
言葉による相互理解には自ずと限界があり
それはそのまま
感性的抑圧を招き
時にひとは孤独の深淵に蹲るものでしょう・・

藝術は
自由な意思に基づいて
社会的制約を解き
現実的葛藤、確執を理念的なものに
アウフヘーベンし
私たちを解放してくれます。




抑圧された精神からは
自由な思考は奪れてしまいます。
そうして思索の季節を重ね
カント体験を経たシラーはカリアス書簡を含む一連の考察で
人間の実態は
あくまで感性と理性の混合体であり
構成美の上位に位置づけられる優美は
美しい人間性の表顕であり
普遍性を兼ね備えていると論述していました。

感性と理性の調和の上に成り立つ穏やかなる”美”の世界観があり
そしてさらに
感性と理性の対立に起因する苦悩を経てこそ
到達できる”崇高”の世界観がまたひとつあります。
このふたつが一体不離となってこそ
ひとの在るべき姿が形成されるとも・・。

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不確実性を生きる生の中では
強大な自然的必然性にもまた抗うことはできません
であれば人間は眇たるものでしょうか

”意志”は常に自身の内側に在るということ
崇高の概念を感受し得た者は
畏れるものなどなく
ひとはそこで真の自立性を獲得し
人間は自由に意志する存在になりえると
結ばれていました・・。

ーーまたこうした心を形成することに
人間教育の究極的使命があるという言葉も添えられていますーー

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【 2013/01/20 22:10 】

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美しきもの日本画~日本の美学/美意識その心と技法~成川美術館~最後の晩餐/テンペラ画~幽玄論~カント/ウィトゲンシュタイン/壮子
イタリアはミラノ
サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ修道院の壁画に描かれた
レオナルド・ダ・ヴィンチの”最後の晩餐”に邂逅したあの日
正面の壁一面から立ち上ってくる
美しき緊張感は
見えない光となって私を照らし続けました
息を呑んで立ち竦んだあのとき
西洋のテンペラ画に潜在する見えざる美
その正体も掴めないままに
唯々西洋絵画に惹かれ
仕事が押せば閉館間際に滑り込むといったような
駆け足の美術館巡りを重ねて久しい頃のことでした。

油彩画からは得られない何ものかが
テンペラ画に秘められていることに気付かされ
そのフラットな印象に
日本画の趣が重なり
帰国後ふと思い立って
箱根の成川美術館に赴いたのは
それから間もない
春の日の昼下がりでした。

120401

油彩画に特有の
光沢に相俟う光と影の競演、
積層的な厚みは
日本画が湛える静謐感のもとに蔭を潜め
そのしじま
余白の美しさは
胸に深く沁み入って私を捉え
容易には作品から離れることができずにいました。

日本人が古くから育んできた美意識
西洋絵画には見出せない情趣が
息衝いているようで・・。

憂愁とはまた違った
美を基調にした静寂
その余情に美しさを見出す”幽玄論”
にも似た美的概念と申しましょうか。

描かれていないが結えに

余韻に戯れようとする自身の情感が刺激され
より深く
より強く
その作品に身を委ねることができる
その余情の在り処・・。

そして
言葉もまた
想いを越えられません
言葉で表現しカタチにしてしまった時点で
最早その心象とは別物になってしまう・・。

西のヴィトゲンシュタイン(語りうることは明瞭に語られうるが、言いえないことについては沈黙せねばならない)
東の荘子(知るものは言わず、言う者は知らず)
その論理しかりです・・。

また日本古来の美学には、

その溢れる想いを
秘めることによってのみ得られる
感懐があり

それは時に
永遠性をも感じさせる
美しい概念であります。

もののあわれを知ることこそが人がひとたる所以である
とした文学的理念もまた
中世から脈々と受け継がれてきた日本古来の美学なんですね・・。


絵画には自律性といった問題もあるものでしょう
思想にさえ寄らない純粋な芸術
ですが
宗教性や文学性
或いはイデオロギーに基づくその制作理念が
作家個人のものなればそれは他律的であるべくもなく
信じる理念に基づいて為された作品であってこその
個別の世界観であり
また
そこにある種の傾向、系統性は見出せるものでしょう。
けれどそれはあくまで二次的なものに過ぎないんですよね・・。

鎌倉時代からの
不立文字
経典を持たない禅の
その精神に学んだ
既成概念に縛られない思考プロセスは
掛け替えのない財産かと・・。


”正義はなされよ、世界が滅ぶとも”は
カントの著作”永遠平和のために”の作中に於いて
ドイツ皇帝フェルディナンドⅠ世の言葉として引用された格言でありましたが
カントの行き過ぎた形式主義に対する
シラーらの批判にも明らかなように
感性の上位に理性を置こうという社会通念の枠組みの中では
知性的認識としての論理学は、
感性的認識で以て
常に補完してゆく必要があるということかもしれません。

美的判断論や美的価値論、芸術の哲学
プラトンやアリストテレスに始まりカントやヒュームに受け継がれた
美学、包括的に論じた数えきれないほどの書物に触れても
見出せないものがあります。
また、美を論理的に検証すれば
それはそのままに美学論争に発展します。

私たちはあらゆる経験と考察の中から
各々
生(=価値観)を温めそして育みまた
それは日々成熟させてゆく類のものであとうかとも思うんですね。
ですが如何に知識の牙城を築き上げても辿りつけない高み
その先にあるものは
感性の奥底に潜む真理(美)を
真っ直ぐに見つめることのできる
凛とした心の眼差しでしょうか・・。

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日本画という言葉を真に
理解するには
日本古来の画材を用いたその伝統的技法の感得を置いて他
ないのかもしれません。
基底材に表す独自の色合いの生成へのプロセスがあり
線を中心とした構築性
表現描法といったものもありましょう・・・。
到底踏み込むことのできない領域です。
ですが
描かれた日本画に漂う
言葉に置き換えることのできない表象
を受け取める感性は、培ってゆくことが
できるように思うんですね^^

後期ヴィトゲンシュタインの考察
ーー言語の限界は世界の限界ーー
に鑑みて
ささやかにタイピングしてみました^^






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【 2013/01/17 21:30 】

| 絵画/彫刻 | トラックバック(0) |
オルハン・パムク/雪/白い城/静かな家/黒い書/ジュヴデッド氏と息子たち~イスタンブール~ノーベル賞作家~
ーー私は世界から遠いところで育ったーー

イスタンブールのノーベル賞作家
Orhan Pamuk

千数百冊に及ぶお父様の蔵書に埋もれて
幼少時代をすごしたと言う彼の
ノーベル賞の受賞演説、
深みのあるこの講演のタイトルは”父のトランク”でした。

処女作”ジュヴデッド氏と息子たち”で
オルハン・ケマル賞
次作”静かな家”でマダラル賞
続いて”白い城””黒い書”・・・etc.

ドストエフスキー、カフカに傾倒し
プルースト、モンテーニュの影響をも見て取れる,
正統派の作家
日本文学 谷崎、三島にも魅せられた経緯もあったとか。

こうした
現代のトルコ文学を代表するパムクの作品に
”雪”
があります。

130114.jpg


時は20世紀末
物語は
イスタンブールの左翼系新聞に執筆した記事により
ドイツ亡命を余儀なくされていた詩人のK(ケルム)が
母他界の知らせで12年振りに故郷の土を踏む処から始まります。
そこで再会した古い友人からの仕事の依頼で
トルコの北の街
アルメニアとの国境カルスへ向かうことに・・。
カルスは
ビザンツからセルジュクトルコ、モンゴル帝国
さらにオスマントルコ・・そしてロシアへと
時の支配者たちに翻弄された地方の田舎町です。

そしてこのカルスには
分離派テロリストのアジトがあるという噂があり
さらに
学生運動時代に出会った美しい同志がいる。


この辺境の町への道程は
刻々と


雪一色に変わってゆくんですね
空を舞う雪
音もなく降りしきる雪
吹き荒ぶ雪
その道のりを
十数時間かけ
エンジン音だけを響かせて進み行くバス。

辿りついたのは
典型的なロシア建築のホテル”カルバラス”
”雪の城”の意です。
経営していたのは、
あの
美しき同志 イペッキ。
ですが雪は日毎に勢いを増して
Kは、
白銀のカルスに閉じ込められることになる・・。

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”雪の密室”というメタファも在るなか(笑
夢中になって読み入ったOrhan Pamuk
真白に包まれたYOKOHAMAの瞬きに
胸に蘇ったのが作中のカルスの雪でした・・。

部屋に籠って読書をし続けたいとの動機のもと
イスタンブール工科大学の建築学科から
ジャーナリズム学科に移籍したという筆者らしく
911を超えてのトルコ情勢
イスラム過激派の動向にも触れられ
(ロマン的要素は淡く)
また
主人公の"K"は彼の作品に散見される
Kであり
こちらチェコ出身のドイツ語作家
カフカのイニシャルからでしょうか・・・。




テーマ:文学・小説 - ジャンル:小説・文学

【 2013/01/14 16:36 】

| 文学~小説/詩/名言 | トラックバック(0) |
ウィーン~コーヒー/メランジェ/ブラウナー/シュヴァルツアー/アインシュペナー/カプチー~ザッハー/トルテ~第三の男/カフェモーツアルト~ムゼウム・ウィーン/クリムト/シーレ~ドームマイヤー/ヨハン・シュトラウスⅡ世
ウィーンでカフェと謂えば
ザッハー
トルテと赤い絨毯で有名なお店。
ザッハートルテとしてチョコレートケーキの代名詞にもなっていますよね。
それから映画”第三の男”にも登場したカフェ”モーツアルト
いずれもオペラ座のすぐ近くにあります。
また19世紀末、クリムトやシーレらが芸術談義に華を咲かせたムゼウム・ウィーン
ヨハン・シュトラウス2世のデビューコンサートの場になったという
ドムマイヤーなどは外せない処かと^^

131231.jpg

そして
コーヒーと謂えば”メランジェ”
何故かフランス語(笑
ミックスするという意味ですが
コーヒーにクリーム、その上に泡立てたミルクを加えた
マイルドな口当たり
ウィーンのコーヒーハウスでは
先ずは”メランジェ”お試しください。

ポピュラーな
コーヒーにミルクは、ブラウナー
エスプレッソは、シュヴァルツアーといった処でしょうか。
さらにさらに
ウィンナーコーヒーの本場・・
と思いきやウィーンにはその名のコーヒーは存在しません(涙
似たものに
ホイップクリームに粉砂糖を散らし
背の高いガラスのコーヒーカップで味わうアインシュペナー。
冷めたく戴くコーヒーは
グラスの底のバニラアイスに
冷やしたモカを注いでホイップクリームをトッピングした
アイスカフェ。
カプチーノはホイップクリームにカカオの粉・・・etc.

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ドナウ川の畔の豊かな自然を要するウィーンの森
そして
”ウィーンの森の物語”は、”美しく青きドナウ”で知られる
ヨハン・シュトラウス2世の作曲したワルツのタイトル。
ウィーン・フィル、ニューイヤーコンサートでもお馴染み
”交響詩”にも近しい楽曲です。

テーマ:ヨーロッパ - ジャンル:海外情報

【 2013/01/11 18:25 】

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後期バロック/ロココ様式/ロカイユ装飾~シェーンブルン宮/衛兵交代~プラハ城/バッキンガム宮殿/クレムリン/エリゼ宮
シェーンブルン 衛兵交代
この衛兵交代式
海外を訪れると
プラハ城、バッキンガム宮殿
エリゼ宮・・など
随所で行われているのですが
つい魅せられてしまいまして・・。
交代式に遭遇すると
余程急いでない限り
大抵見入ってます(笑
何故こうまで惹き付けられてしまうのかと思うほどに・・。
”統一された動きは美しい”
ということでしょうか・・。
そう考えますと
ここに例外は少ないようにも感じるんですね。

音のない世界・・
舞、舞踏、ダンスetcの範疇!?
という見方もできるものでしょうか。

台北などの
”静”を生かしたそれもまた別格
素晴らしいですね・・。

131202

オーストリアの首都ウィーンで
テレジア・イエローに包まれるバロック建築
かつてのハプスブルク家,夏の離宮です。
(実際はもう少し大人しいイエローです・・スミマセン彩度上げすぎました)

17世紀後半、時の王より
フランスのヴェルサイユ宮殿を凌ぐようにとの命で築城された
シェーンブルン宮殿
神聖ローマ皇帝 マティアスの命名です。

内部は
後期バロックにしてロカイユ装飾あり
のロココ調
繊細優美な空間が広がります。
例によって天井と壁の境目は見当たりません(笑
フランス式庭園に
日本庭園もあるんですね^^

実はこちら
一般市民も住めるんです。
100㎡で円換算して6万程度ですが
あまり人気はないのだとか・・・。

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此の度より
コメント欄お休みさせて戴きます・・。
休日、お仕事の合間などに更新しておりましたが
なかなかバランス良く皆様のブログを訪れることができず
申し訳なく思っておりました処
新しいプロジェクトの立ち上げも重なって参りました。
ささやかなブログでございます結え
ご理解戴けましたら幸いにございます。
saki

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【 2013/01/09 15:43 】

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2013ニューイヤーコンサート/ベルリン・フィル~2014指揮者/サプライズ~シュトラウス/ブラームス/モーツァルト/ハイドン/ワーグナー/ウェーバー~
☆ Happy New Year ☆
2013ウィーンフィルニューイヤーコンサート
20130101

ブラームスも指揮を振っていたという
オーストリアヴィーナー・ムジークフェライン
ホール内部の装飾と音響の素晴らしさから
黄金ホールとも呼ばれるウィーン楽友協会本部、
ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団のホームグラウンドになってます。
(ピアノメーカー”ベーゼンドルファー”も入ってます)
此処”Wiener Musikverein”は
ブラームス自身の作品初演のホールもありまして
そこはブラームス・ザールと名づけられています。
1812年の設立です。

そして
イタリアサンレーモ市から贈れた華やかな薔薇や胡蝶蘭など
美しい生花に囲まれた新春の演奏会
ウィーンフィルニューイヤーコンサートの開催場所でもあります。
同じ演目で
12月30日オーストリア軍のために
12月31日ジルベスターコンサート
年明1月1日本番ニューイヤーコンサートという流れです。

曲目はシュトラウス系のワルツやポルカがメインですが
年ごとにゆかりの深い作曲家
シューベルトの”イタリア風序曲”やウェーバーの”舞踏への勧誘”
ブラームス”ハンガリアン舞曲”にモーツァルト”フィガロの結婚”
ハイドンの”告別”
その他リスト、ロッシーニ、オッフェンバックなどの作品も
演奏されています。
今年はヴァーグナーとベルディでした。

楽団員の投票によって選ばれる指揮者ですが
毎年1月2日には次年度の指揮者が決定しています。
来年度指揮者は、早くも昨年暮れ
ダニエル・バレンボイムの名が上がってましたね。

このニューイヤーコンサートは
世界有数の音楽会、取り分け最もプレミアが付く演奏会の一つと言われています。
近年減少傾向ではあっても
それでも日本人も結構いらっしゃってます^^
みなさん正装ですが、コンサート自体は堅苦しいものでなく
新らしい年を迎えた祝賀ムードいっぱいで
和やかな雰囲気の素敵なコンサートです。
第二次世界大戦後からは
この演奏会のアンコール曲3曲のうち最後から2曲めは
美しき青きドナウ、ラストはラデツキー行進曲
これ定石なんですね。
さらに
美しき青きドナウの冒頭の拍手で演奏を中断
ここでウィーンフィルからの新年の挨拶。
ラデツキーに至っては
指揮者から観客に手拍子のキューが入ります(笑
ウィーン少年合唱団の共演もよく知られる処ですが
年毎に趣向が凝らされ
時に
ファゴットから花火が上がったり
”電話のポルカ”のラストで指揮者の携帯電話が鳴る演出があったり
客席通路でダンサーが踊ってみたり、奏者全員がタオルマフラーを身につけたり
指揮者と演奏者の間でイエローカード、レッドカードの応酬を繰り広げたり
打楽器奏者が曲中にシャンパンを開けて乾杯してみたりですとかしているようなんですね。
今年は可愛らしいぬいぐるみ配り撒くってました
低音のファゴットには”象”といったように
それぞれにユーモラスな含みが・・。
最後には
贈られたターナーのお返しにコック帽を返された指揮者が
帽子を被り
タクトの代わりにそのターナーを振ってました(笑

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【 2013/01/04 15:50 】

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