神奈川近代文学館 Ⅴ~山手えの木てい/ローズシフォン
文学館の感慨に戯れるのは
えの木てい
みなとの見える公園内カフェとは
姉妹店です

お昼休みのランチにも
時折利用させて戴いてます♪

しっとりしたシフォン生地に
ミニ薔薇がアレンジされた
季節のスイーツもお気に入りです^^

DSCN2840.jpg

新緑の清々しい空気の中で
(文学館シリーズⅣ章の続き)
理性と感性のバランスに
思いを馳せました・・・。

知性は知能行動となり
本能行動に対する学習のウェイトで評価されるようですが
理性は
さらにその上位
云ってみれば
最も複雑な知能行動とされ
情動的行動に対する理性的行動のウェイトとして評価される・・。

如何に知識を積み上げようとも
それがあらゆる機会に
適切に引き出され
駆使することができなければ
(その場の感情に捉われず
理性行動の選択に反映させることなくば)
それは単なる知識の集合体と化してしまい
知性的なるもの
とは呼べなくなってしまいます。

そして最終的な意思決定の機能を備えているのは
実は、感性なんですね・・。
ですから
意思決定は情動反応とも謂えようかと。

知性や理性で選び取った
より価値の高い未来の選択
行動選択の動機を成立させているのは
やはり”心”
心の動き
ということになるんですよね

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正しい判定基準となるべく知識の積み上げは
外せない処かもしれませんが
状況に応じた適切な行動を選択する能力
即ち道徳観、倫理観といった
成熟に繋がるべく大切な要素
そこに欠かすことのできない
他者の痛みを感じ取る情動理解は
個体内でのシミュレーション能力に由来する力であって
此処にこそ人間性の豊かさを育む
教育の本質が潜んでいるように感じてなりません・・。



























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【 2013/04/30 09:30 】

| 哲学 | トラックバック(0) |
愛は惜しみなく奪う/有島武郎~神奈川近代文学館 Ⅳ~愛は惜しみなく与う/トルストイ
愛と善による人類の救済的思想により
愛は惜しみなく与うと説いたトルストイに
迎え撃ったのが有島武郎
愛は惜しみなく奪うという
有島理論です。

DSC_0022.jpg

尤も往時の有島が意識した
相手はトルストイでなく
ポーロでありましたけれど・・。

一見して
矛盾しているようにも受け取れる
両見解
ですが・・
実は
ここ
切り取っているopportunityと申しますか
case studyの問題に帰する部分
視点、解釈
時に表現の相違(詳しくは終章に・・)を
多分に含んでいるようで
巷に謂われるほどは
違っていないかと・・。

こうしたあたり
優れたひとに在りがちの
思唯を楽しむ傾向
多分にあると思うんですね
言葉遊びと申しますか
思索への戯れは
美しき遊戯とも・・。

パスカルではありませんが
人間は考える葦
精神そのものですものね。

与えられた運命にはそうそう逆らえるものでなく
自然(現実)の前には弱き存在、人間
ですが
受容し、しなって耐える強さをも備えている・・
これを支えるのはやはりこの思考性なんですよね。

有島的愛の在り方は
ーー愛の表現は惜しみなく与える
しかし、愛の本体は惜しみなく奪うものーー

有島自身で既に”本体”と明記しているが如く
人間が本来持ち併せている
本能をしてその傾向性を示したものでした。

ーー「愛」と云ふ重大な問題を考察する時
正当な本能からは全く対角線的にかけへだたつた結論を構出
「惜しみなく与へ」とする者の為す所を的確に云ひ穿つた言葉だーー

本体を指すならば
彼の論述の通り
そこにあるのは”求める愛”
或る側面では真っ当な論理
わかります^^
有島理論。

ですが
トルストイが説いたのは
その先・・・
本体をどう扱うか
だったんですね・・。

人間の欲望に限りがないとされるのは周知の事実
或る望みが、ひとつ充たされれば
代わってさらなる望みが必ず立ち現れる・・
ですから
”求める愛”から得られる達成感は悉く
一過性になりがち・・。

また、
対象(家族愛友愛含め)と同じ価値観になりえる筈もなく
何かを求めれば求めるほどに
充たされない(納得のゆかない)想いが付き纏う
といった少し淋しい愛のカタチが
浮かび上がってきます。
畢竟、他者への肯定感も薄くなる
そしてそれは
寧ろ自身の脆弱性となって顕れてくる・・

愛の意味を
愛されることにでなく
愛することにこそ
見出すひと
愛の本質を視るひとは
必要以上に
他者に何かを求めることの虚しさを知るようです・・
こうした愛の中での
他者は、どこまでも自由
であれば必然、自身も自由。
ここに生まれるscopeは広い視野で対象を見守ることを可能にし
それはそのままその者の強さと成りえる・・・
極々シンプルな帰結です。

こちら、トルストイの理論は
有島が言い当てた
人間本来の姿
誰しもが持ち合わせている愛のカタチに
知的処理能力、論理的比較能力を照射し
如何に精良な経験的感性的思考を導き出せるか
だったというふうに
受け止めるものです・・。

ですので
誤解を恐れずに言えば
”負の感情(本能)的言動は思考でコントロールできる”
と個人的には思っています
そこで初めて精神の解放が見られるものだと。
と謂うより
そう在りたい・・・。

なぜなら
私は
そのように生きゆくひとを
美しいと感じるから・・。

そしてそれは
人間だけに備わったチカラであり
この能力こそ
人間力の礎になろうかというふうに考えるものです。

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与える愛は
強いですね。
求める愛
奪う愛が陥りがちなもの
怖れる何ものもありませんから・・・。

















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【 2013/04/28 10:52 】

| 文学~小説/詩/名言 | トラックバック(0) |
文学とは何か~言語芸術/造形芸術~総合芸術~空間芸術/時間芸術
文学部で学ばれていらっしゃるという或る”文化人さま”のblog記事で
”文学とは?”
”文学の定義とは?(RPGは文学か?)”というテーマで議論を投げかけていらしたのに接し少し綴ってみました。

DSC_0103.jpg

先ずは
”文学”という概念
欧州で謂う”literature”
例によって定義とは曖昧なもので
必ずしも一様ではありませんが
(けれどだからこそ学びは
楽しいのだと思ってみたりもするのです^^)
敢えて記すなら
広義には”文書形式由来の言語的作品”
といったニュアンスが支配的で
さらに、狭義で言えば
上記のうち、美的志向性のある作品に
限られて来るのかもしれません。
また、小説・詩・戯曲・評論といった本来的意味での創造的文学と
哲学に歴史に書簡そして講演などまで含めた上記以外の括りのそれ
この2つに大別して捉えて来ました。

故、現代の多種多様な作品群(作品にもよりますので、例外在りの前提で)を鑑みるに
映画(アニメ含め)は、(時に広義の)文学をベースにした映像作品
演劇は、(時に広義の)文学をベースにした舞台作品
歌曲は、(時に広義の)文学をベースにした音響作品
そしてRPGは、(時に広義の)参加型の文学をベースにした(やはり)ゲームかと。

いずれにしても
如何に文学的要素はあっても
そこに音響、映像、舞台、ゲーム等別の価値が付加されてきますと
この時点で、既に文学と謂うジャンルの枠の中には
収まり切れないものがあるように感じています。
此処、本当にあくまでも私見ですので異論大歓迎です(笑

では芸術とは・・そのデフィニション
名辞としては
”表現者が鑑賞者に向けて
己の創造性をもって働きかけるべくとった”媒体(作品)”であり
鑑賞者側がその作品から感受する何ものかが存在すれば
その時点で既に芸術として
成立し得るものであろうかとも思うんですね
ここ、厭くまで広義として。
であれば
上記(映画も演劇も歌もRPGも漫画も含め)は須らくそうなのでありましょう。

確かに藝術活動推進のための組織と申しますか
所謂、権威に依るか依らないかという問題があります。
けれど
こちらはまた
別次元のそれであろうかと・・。

音楽は音響藝術、美術は造形藝術
そして文学はと云えば
言語藝術といった見方も在るようですが
狭義で謂えば
プラトン、ヘーゲルらの論を待つまでもなく
美の理念の実現をしてこその藝術とされるものかもしれません。。
しかし、こうした美的価値を巡る議論では此処
意見の別れる処でありまして・・・。
趣味判断と論じたカントの判断力批判に、
娯楽芸術という類型こちらもしっかりと存在してたりしてますので
それぞれの価値観に従うのが順当のように思われます^^

また娯楽を謂うなら
当に
鑑賞者側の感覚(判断)に依る処が大きいのかと。
本人が芸術性を感ずればそれは立派な芸術でありましょうし
エンターテインメント性を感じるならば
娯楽であろうかと思われるものです。

何れにしてもこうした言葉の定義や
概念そのものが既に固定的なものでなく
時代と共に変わりゆく類のものであろうかと思うんですね。

ですので
近年の芸術ジャンルは・・・
一瞬で全てを表現する(絵画・彫刻・建築などの)”空間芸術”
時間の流れとともに鑑賞する(文学・音楽などの)”時間芸術”
さらに各芸術のクロスオーバーとして
ジャンルを超えた協調、調和、融和によって
複合的に織り成される(オペラなどの)”総合芸術”といった
分類法が顕れてきていますよね

多様化してゆく新しい芸術
その在り方に合わせて
言葉もともに変遷してゆく・・・
よって
従来の枠組みでは測れないというのが
答えなのかもしれません・・。

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さらに突き詰めようとするならば
構造主義的記号論の領域に入ってゆきます。
そうなると
宿命的とも謂える多義性も付き纏ってきますし
ゲーデルの不完全性定理(笑)なんかも脳裏を過ります。
また、テクスト論となれば
かなり論点がズレてしまうかと思うんですね
こちらニーチェの形而上学批判にも思いは至りますが
それはそれは酔いそうなほど奥行きのあるテーマで
考えるだけでワクワクしてきます・・。




























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【 2013/04/26 09:17 】

| 文学~小説/詩/名言 | トラックバック(0) |
私的”嵐が丘”論 Ⅳ~エミリー・ブロンテ 
”嵐が丘”を
ドストエフスキーの”悪霊”や”カラマーゾフの兄弟”に
擬える向きもあるようですが・・・

DSC_0148.jpg

そうなんですね
在る部分でイメージ重なるところも^^
けれどいくらなんでも
ドストエフスキーとエミリーが
あまりに違いすぎて・・・。
少なくともエミリーはドスト的な地獄を見ていないでしょうし
革命思想もなかったようですし・・
ですが此処なんですね
そうであるにもかかわらず・・・。

モームが心服しアインシュタインが敬愛し
ウィトゲンシュタインが傾倒したドストエフスキー
(彼らの記述に目を向けるに)その論拠のひとつが
あの強烈な個性・・
そうした意味でエミリーも
ドストが到達し得たかに見える
ヘラクレイトス的境地を
嵐が丘に垣間見せているんですよね。

ーー魂は深く、我々はその限界のなさを知るのみであるーー




※大デュマの手による”モンテ・クリスト伯”は
ほぼ同じ時代の作品ということもあって
かなり近しいかと・・
両者揃ってstorytellerですし。

ただ主人公のモラリティーという点に於いて
エドモン・ダンテスとヒースクリフは決定的に違っていたんですよね
この相違こそが
嵐が丘が嵐が丘たる由縁と言えなくもないのかもしれません。

また、三代に渡る物語
気の遠くなるような時間が流れてゆく空間に
放り込まれるあの独特の感覚・・では
ラテンアメリカ文学の
ガルシア・マルケス”百年の孤独”の奥行きに
重なるところが・・。
そしてその壮大さと対照的な
物語性の息苦しいまでの閉塞感
このギャップが
”嵐が丘ワールド”構築に大きく寄与しているものでしょう。


後はもう
想像力(思考力)との勝負
というか戯れといっても良いのかと・・・。
嵐が丘の物語は
私たちのそれによって
如何様にもできる特殊な空間が支配しています。
生かすも殺すも読み手次第
ブラックにも
シュールにも
深遠なるものにも
永遠なるものにも・・・・。

そしてこの物語の根底に
厳然と在り続けるのが
作者エミリー・ブロンテそのひと
とにかく凄いです。

ここでも作品はひと
エミリー・ブロンテ
彼女の世界観そのもの
なんですね。

エミリー・ブロンテは嵐が丘に
根源的愛の世界を表現しました。
こうした
普遍的人間性開示の実現は
文学の原点でありましょうし
また
文学の永遠性を可能にしてゆくものではないかと・・・。


ーー私のエドガーへの愛は森の枝の葉のようにうつろうものです。
でも、ヒースクリフへの愛は地底の巌のように永遠なんです。
私はヒースクリフですーー


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真に人を愛したなら
”そのひとは
自身の心に棲みついてしまうもの
そして自身の居場所は
もう愛するひとの心の中
そこにしかない”
ということなのでしょうか・・



ーー最も優れた人は、多くを求めずたったひとつの大切なものに無限の運動を続けるーー
                                    ~Hērakleitos



























































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【 2013/04/24 08:34 】

| 文学~小説/詩/名言 | トラックバック(0) |
私的”嵐が丘”論 Ⅲ~エミリー・ブロンテ
イギリスはヨークシャ地方
ヒースの花咲くムーアの牧師館で育った
ブロンテ姉妹
その姉シャーロットは”ジェーン・エア”で
妹アンは”アグネス・グレイ”で
そしてこの”嵐が丘”で知られるエミリー・ブロンテ
三姉妹揃って文学史に名を残す女流作家です。

DSC_0224.jpg

時はヴィクトリア時代。
イギリス建国の頃から
ジェントリー、ナイト、ロイヤルなど
8階級から成る英国の階級制度
経済構造の変化によっても尚
厳然としてその名残のあった”嵐が丘”時代
幾多の文献に接するに
こんなにまでも人々を苦衷に落とし込んで・・・と
息苦しくなるほどの呻吟も伝わってくる
虚しき階級制度
その軛からどうにも逃れられない人々。
(こちら他でもない社会構造が生み出した産物のようですが・・・)
またモラルにも大変に厳格であったという
そうした世相に在りながらの
キャサリンのあの価値観
愛の在り方
ヒースクリフのああした行動・・
こうした処に想いを馳せてしまうと
涙で滲んで文字が読めなくなって(笑
手元の書を閉じては暫くして
また読み返すといったことの繰り返しで
読み進んだこと想い出されます。



嵐が丘は、
ヒースクリフとキャサリンの愛のカタチを
描いているようで彼らは
もしかしたら筆者が”描き出したいもの”
その器でしかない・・・
そこに息衝くは
精神(愛の本体)そのものかと。

巷に溢れる安易な恋からは
得られないもの・・。
といいますか
筆者にしてみれば
そこには真理などない
という処でしょうか・・。

永遠とも思える憂悶の時間のなかに於いても
逃げることもせず
真っ直ぐに向き合い
何があろうと変わることなく思い続ける
気の遠くなるような想いの積み重ねの先に
見えてくる精神の深淵
日本で謂えば”葉隠”の世界観にも通じる
普遍性・・

真実は魂を解放するんですね・・・
救いのないような作品に見えるかもしれませんが
ここに描かれた愛は
作者エミリー・ブロンテの
”愛の夢”なのかもしれません。
これこそが実存と
謂わんばかりの迫力であります。

解るひとには解る
解らない人には
解らなくて結構
”嵐が丘”は
そうした彼女の強い意思に貫かれた作品とも云えるものでしょう。

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嵐が丘に流れていた
あの時間
その総てにおいて
ふたり体は離ればなれでも
心はいつもひとつだったんですね・・・






ーー嵐が丘に比するものがあるとすれば
            グレコの絵だけだーー
                ~サマセット・モーム
























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【 2013/04/22 08:47 】

| 私的恋愛論 | トラックバック(0) |
私的”嵐が丘”論 Ⅱ~エミリー・ブロンテ
女流作家らしい極細やかさからか
時系列的にも地理的にも法的知識にしても
極めて緻密に練り上げられているこの作品
自然描写も感情描写も卓抜しています。

DSC_0068.jpg

そして極め付けがナレーターのポジショニング(あくまで私見)です。
筆者であるエミリーはまずロックウッドに語らせ
ついでそのロックウッドにネリー・ディーンが語って聞かせるという手法を取っています。
(彼はヒースクリフの話の聞き手でもあり、キャサリンの日記の読者でもあります)
”嵐が丘”を包む雰囲気は語り手が創っている・・・。

作中には、確かに
”冷静な傍観者ーThe two, to a cool spectatorー”との叙述。
けれどそれさえも語り手本人の言葉です。客観性を持たせていないんですね
作者は、どこまでいっても”信頼できない”者として、語り手を設定している。
語り手ネリーの言葉をそのまま受け止めるに
慎重にならなければ物語は別のものに変容してしまうかもしれません。
ネリーの口から彼女の言葉で語らせている以上
それは彼女の解釈に過ぎませんし
その表現が心暖かき人物のそれとは違うと
感じ取れたなら・・・。

けれど
第三者がどう語ろうとも
この愛の根底にある真実の輝きが失われることはないんですよね
”有らぬNarrator”のそれによって
美しきものを一層際立せる
エミリー・ブロンテのテクニックに敬服です・・。

こうした意味で・・・英国文学において
嵐が丘ほど”はっ”とさせられる鮮烈な作品を
私はあまり知りません・・
個人的見解で言えば
英国はシュイクスピアとバイロン国だと思っていましたから^^

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舞台となったのは
ハワースの荒野からほど近い場所。
そこにマンチェスターに次ぐ英国の貿易港
リバプールがありました。

時は産業革命只中
英国が世界を支配していた時代です。
大量生産 大量消費 機械文明の魁となり
アフリカ、西インド諸島、インドから中国にまで及ぶ
壮大なバックボーン・・想起されます。
ここに於ける中心的都市のひとつとなった港町が
リバプールです。
エミリーは此処から物語を
紐解いて行くのです・・。


作中にはヒースクリフ
3年に及ぶ失踪がありました
その間の記述は殆どありません。
ですが
プロットを掘り下げ
綜合的に勘案するなら
”新大陸”辺りが順当なところでしょうか。

英国軍とマサチューセッツ市民との衝突に端を発した
アメリカ独立戦争の時期にも重なっていますし
軍に在籍させれば
あの粗野な彼がマナーを身に着けて帰ってきたこととも
妙に整合性が取れる・・・
ましてあの時代にあれだけの財を為すことも可能な地・・・
などなど
もうひとつの”嵐が丘”を書きたくなる
所以がここにもあったりするのですが(笑

社会が物質的に豊かになればなるほど
大切な何かが失われつつある
といった不安
これは、心ある人ならば
本能的に抱えている憂いのようにも思いますし
実際
それによって失われ行くものがあります・・。

エミリーは
めまぐるしく社会が変化してゆく
産業革命の過渡期に生き
失われ行く何かに
言葉にならない不安を感じ
彼女の瞳には決して映らない
けれど絶対的に大切なそれを
この”嵐が丘”に閉じ込めた・・
そうも感じるのです。

目に見えるものにのみ価値を置くひとに
このような小説は
絶対に書けないでしょうし
理解の範疇にさえ収まらないものでしょう。

エミリーの生きた社会背景と
嵐が丘の世界観
その対比にも
作品を読み解く鍵
あるように思っています・・。























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【 2013/04/20 10:32 】

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私的”嵐が丘”論 Ⅰ~エミリー・ブロンテ
”トム・ジョーンズ””高慢と偏見””赤と黒””ゴリオ爺さん””デイヴィッド・コパーフィールド”
”ボヴァリー夫人””モウビー・ディック””カラマーゾフの兄弟””戦争と平和”に加えモームが
世界の十大小説(正確にはTen Novels and Their Authors)に数え
(此処の難点はモーム自身の作品”人間の絆”が入っていないという事!?)

また
ブランデンが”リア王””白鯨”と並べて
英語文学三大悲劇と賞賛した作品

”嵐が丘”

DSC_0082.jpg

原題は”Wuthering Heights”
直訳ならば”激しい風の吹く丘”
それを”嵐が丘”と翻訳したその美しき感性に
魅せられたことがこの作品を読み始めた
切っ掛になったのですが・・・。

所謂”古典文学”に於いても
万人に
すんなり受け入れられる作品ばかりでは
ないようです。
そしてこの”嵐が丘”も
そのひとつなのかもしれません。

実際この”嵐が丘”では
読者が感情移入するために必要な説明が省略されていたり
構成が盤石でなかったりといった
”解り辛さ”を抱えた作品であるということも
それに起因しているかと思われます。

ですが
あらゆる芸術において
どこにも脆弱性のない作品の方が寧ろ
稀有ではなかろうかと。
さらには
その脆弱性をもってして
受け手を作品に惹き込むことに寄与させるものこそが
優れた作品と
謂えなくもないのかと思ってみたりもするんですね。
不完全性ゆえの魅力
確かにあると思うんです。

この作品の解り辛さ由来のひとつに
地の文
そのストーリーテリングの問題があります。

基本、小説は第四の壁を前に
語り手がクレバーであってくれれば
読者は理解し易いのですが・・。

point of view・・・
ここで作者エミリーが選んだ存在は
三人称の語り手。
19世紀ヨーロッパの小説でも
三人称で叙述されている作品は少なくありません。
思い付くだけでも
フローベールの”ボヴァリー夫人”
セルバンテスの”ドン・キホーテ”
カフカの”変身”など大著が並びます。
ですが
エミリーが採用した語り手は
全知(神の視点)ではなかった・・。
読者が理解しやすいように物語を説明する語り手を
”信頼できない語り手”として
エミリーは設定しているんですね。
”unreliable narrator”と呼ばれるこの概念に照らせば
エミリーには当初から
主人公が知見したその総てを読者の前に提示する意思は
なかったことが見て取れます。
そして
ここに原作者の意図がはっきり表れています。

narratology
所謂”物語論”の分野で謂う
一元視点の三人称小説は
異質物語世界観で構築されています。
ですので
読者が知りたいと切望するような
重要な出来事をバッサリ省略することも可能です。
よって
もどかしさに相反するが如く
受け手の想像を掻き立てることができるんですね。

実際この”嵐が丘”は
読めば読むほどに
新たな解釈を引き寄せます。
そして
どんなに求めても
汲み尽くせない
その神秘性も魅力のひとつであろうかと。

行間を読まされる楽しさ
想像力を駆使させられる歓び
それゆえか
時に構造主義的に
時にマルクス主義的に
時にポスト構造主義的になどなど
それぞれの時代に叶った
多くの文学理論の立場から
幾星霜を超え
研究され続けながら
現代の今になっても
統一見解が見出せていない小説
それが
この”嵐が丘”なんですね・・。

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文芸に限らず
多くの解釈を呼び起こす芸術作品は
”伝説”になるようです・・。



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【 2013/04/18 17:35 】

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イズムの香り~3つのイズム/有島武郎~神奈川近代文学館Ⅲ
************************************************************

センティメンタリズム
ロマンティシズム
リアリズム
この三つのイズムは、その何れかを抱く人の資質によつて
決定せられる


DSC_0131.jpg

或る人は過去に現はれたもの
もしくは現はるべかりしものに対して愛着を繋ぐ
そして現在をも未来をも能ふべくんば
過去といふ基調によつて導かうとする。
凡ての美しい夢は、経験の結果から生れ出る
経験そのものからではない。
さういふ見方によつて生きる人はセンティメンタリストだ。

また或る人は未来に現はれるもの
もしくは現はるべきものに対して憧憬を繋ぐ
既に現はれ出たもの
今現はれつつあるものは
凡て歪んでゐる。
やむ時なき人の欲求を満たし得るものは
現はれ出ないものの中にのみ潜んでゐなければならない
さういふ見方によつて生きる人はロマンティシストだ。

更に又或る人は現在に最上の価値をおく
既に現はれ終つたものはどれほど優れたものであらうとも
それを現在にも未来にも再現することは出来ない
未来にいかなるよいものが隠されてあらうとも
それは今私達の手の中にはない
然しここには具体的に把持さるべき
私達自身の生活がある。
全力を尽してそれを活きよう
さういふ見方によつて生きる人はリアリストだ。


***************************************************************

こちらは有島の筆によるもの
その抜粋です。

そして
有島はこう記していました。
第一の人は伝説に
第二の人は理想に
第三の人は人間に.....
と。

如何にも
白樺派の有島らしい表現で
学生時代に接した書物ですが
年を重ねた今でも
残照のように胸に響いています・・。

ここに謂う
センティメンタリスト
ロマンティスト
リアリスト
その何れに傾倒しようとも
そのひとが
そのひとなりに
懸命に生きている
そのこと以上に素晴らしいものなど
在るものだろうか・・
なんて
個人的には思っています。

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けれど
センティメンタリストにも
ロマンティストにも
リアリストにも
為り得ない者もいます

そのすべてが
哀しいまでに
愛しくて
何れにもよることができないから。

そうして
此処でも
ひとはバランスを愛するようになる・・

いつの時も
心の柔らかなる場所に
大切に
育んでいるこの感覚は
3つのイズムの海を
縦横無尽に泳ぎながら
精神の深淵で
互いに共鳴し
反映し
やがて
溶けてひとつに重なり
さらなる耀きを放つ
そんな生の在り方。

ここにまたひとつ
美しき
イズムの香り・・・。
















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【 2013/04/16 00:58 】

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神奈川近代文学館 Ⅱ~本の香り
本好きの方なら
共感して下さる方もいらっしゃるかと
思うのですが・・・



DSC_0092_20130413155605.jpg

書物の魅力は
著作の内容だけに留まらない・・・

”パケ買い”という言葉から伝わるそれも
ひとつの文化かと思われるのですが
書籍で顕わすなら
其の思い溢るる装丁,
重要な要素
かと。

文庫本の手軽さも好きですが・・

例えば初版本
そに漂うは
”書物のルーツ”とも云えるもの・・。

また
あのしっとりとした情趣
を含んだ手触りだったり
書物特有の紙やインクの匂いであったり
古書独特の香りであったり・・
そこでは
心の原風景にも似た
豊かにも温もりある
一種の”安寧”が呼吸しているようで。

心地よい緊張感を含んだ美術館の
凛とした空間とはまた違った
文学館に在る
柔らかな星霜を湛える佇まいに
秘史揺らめく情感・・。

幼い頃から
父の書斎を好み
絵本を携えては
法律書に没頭する父の視野に
辛うじて入らないいつもの場所に
ちょこんと座り
ひとりファンタジーに戯れた
あの時の理由とも
幾分かは似ているかもしれません。

文学館しかり
図書館しかり
古書街しかり・・
とにかく
たくさんの書物のなかに
身を置くだけで
何故か
こころ落ち着くという
極めて
シンプルな人間ですので(笑

・・・そう
本の香り・・・。

音楽の齎すそれに勝るとも劣らない
香りの癒し効果
侮れません(笑
ミュージックセラピー(therapy)
アロマセラピーへのシェア拡大に思いを致せば
説明は不要かと・・・
プルーストが現代を生きていたなら
必ずや共感してくれるであろう
(あ、フランス語でテラピー(therapie)とか云われそう(笑)
香りの文化健在です^^

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そして
学生時代
初めてこの文学館を訪れた時の企画展のテーマは
白樺派
其処で出会った
有島武郎・・・。

















テーマ:ひとりごと - ジャンル:学問・文化・芸術

【 2013/04/14 07:38 】

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神奈川近代文学館Ⅰ~日本文学の香り/白樺派
横浜は山手の港の見える丘に
文学館があります。

DSCN2866.jpg

漱石に芥川
実篤に有島に太宰
三島、川端ら多くの作家の
”直筆”原稿や書簡、文芸誌に初版本などが
静穏に収蔵、展示される愛しの場です。

横浜人形の家から
谷戸坂を上り切った処にある英国館
その前を通り抜け
大仏次郎記念館を横切った
この丘の上から見渡せるのは
ベイブリッジを擁した横浜港全景。
大黒埠頭辺りをぼんやり眺めながら
煉瓦造りの霧笛橋を渡ったその先の
緑豊かな樹々の梢の間から
ペン先をイメージした街燈に相俟って
緩やかな弧を描く文学館が現れます^^

締切りに迫られ乍
qualityを譲れない
深夜帰宅が続くような時に
ふっと
訪れたくなる場所
そのひとつが文学館。
東京駒場の日本近代文学館や
鎌倉文学館も大好きな場所ですけれど
私にとって
いちばん身近な文学館が
この
神奈川近代文学館なんですね。

多く桜の樹に埋め尽くされたこの辺り・・・
ですので
やはり
桜の花舞い散る季節に
訪れるのが
いちばん趣が
あるかもしれません。

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そして
例によって
今年も・・・。

ほんの少し疲れめの私を
抱きしめるように
迎えてくれたのは
花びら優しく舞う
さくら色の小経でした・・。






























テーマ:日本文化 - ジャンル:学問・文化・芸術

【 2013/04/12 02:51 】

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白い花
白い花が好きです。


DSC_0048_20130409092239.jpg

幼稚園
すみれ組の
バースデーカードを開いての
自分発見・・・

幼い頃は
大きくなったら
”白いちゅうりっぷ”になりたかったらしいです

そのせいか
白い花を見ると
なんだか
他人とは思えなくて(笑

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気付けば
白い花に包まれて
暮らしてます^^






















テーマ:季節の花たち - ジャンル:写真

【 2013/04/10 08:59 】

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Clément Doucet /Chopinata(動画試聴)~古き良き時代~ベル・エポック/エコール・ド・パリ/ルネサンス期~映画ミッド・ナイト・イン・パリ/ウディ・アレン
パリの石畳を漫ろ歩くなら
その思考が次第に
シフトされゆく不思議・・
そのひとつ
フランスに謂う”Belle Époque”
旧き良き時代
”ベル・エポック”
一般的には
19世紀末辺りから第一次世界大戦開戦前までが
この範疇とされていますが
こちら
この時代の華やかなパリ文化を
懐むというノスタルジーに
裏打ちされた言葉
なんですよね・・・。

2013040717300823a.jpg

普仏戦争での敗戦を経験したフランスを待っていたのは
パリ・コミューン成立に
謂わずと知れた第三共和制・・
そんな政情不安の一方では
産業革命期の最中
ボン・マルシェ的消費文化に
エッフェル塔に象徴されるパリ万博の波が
ヨーロッパ文化の総体としても論じられる
華やかなパリの黄金時代を築き上げ
芸術の中心として揺るぎない地位を確立して行ったんですね・・。
ムーラン・ルージュに代表されるBelle Époque的景観からも
印象派の芸術家たちはインスピレーションを得ていたようです。

とにかくこの時代の芸術が凄すぎて。
思いつくだけでも
(Belle Époque自体の定義が曖昧ですので一概には語れませんが)
文学界では
ルナールやアナトール、メーテルリンクの最盛期であり
象徴主義はピークを過ぎて
ゾラやドーテ、詩の高踏派が終焉を迎えた頃でしょうか。 

美術界ではゴッホにゴーギャン
ルソー、ロートレック、セザンヌ辺りから
デュフィ、マチス、ドラン、ブラマンク
ロダン・・・ガウディ
またアール・ヌーボーの時代であり
ミュッシャらも想起されます。

音楽界ではフォーレにドビュッシー、ラベル・・・
ああ・・もう考えるだけで
ため息が・・・。

文字通り
芸術に於いても黄金時代なのですが
対して
第一次世界大戦を挟んで
隣接するパリ1920年代を”Les Années Folles”
なんて呼んでいますよね。
(同時期のアメリカは当に禁酒法の時代です・・戦間期はジャズ・エイジなんて呼称もありましたっけ^^)
”レ・ザネ・フォル”
訳してそのままに狂騒の時代・・。
音楽ではClément Doucet
Chopinata”の頃でしょうか
ベルギー出身のピアニストですが
ショパンがスウィングしてます
フランスで奏でられたJAZZ・・
綺麗だと思います。
そしてこの時代のパリに生まれた”École de Paris”
こちらもまたため息の出るような名立たる画家たちが同時期同場所に集います。
パリの画廊で開催された絵画展のタイトル
”エコール・ド・パリ”展が語源のようですが
世界中から
パリはモンマルトルに
時を少し下ってモンパルナスに
集まってくる画家たち
半ばボヘミアン的な日常をも送るなかで制作されてゆく作品群・・。
瞳を閉じれば彼らの作品が脳裏を過ります
モディリアーニにヴラマンク
ドランにユトリロ、ローランサン、パスキン、
ダヴィド、シャガール、キスリング・・・
そして
我らがフジタ・・・。


日々の生活のなか
いつの時も
文学に酔わされ
絵画に魅せられ
音楽に惑わされるといった
ひたすら感性で生きているような私に
とりましては
このあたり
結構
堪らない時代でありまして(笑

この時代と云えば
ウディ・アレンの映画
”ミッドナイト・イン・パリ”(原題:Midnight in Paris)には
楽しませて戴きましたっけ。

2011年のアメリカ映画でしたが
如何にもアメリカ的(笑
軽やかな遊び心いっぱい^^

ストーリーは
映画脚本家で小説家志望の主人公がパリを訪れ
真夜中にアンティークカーに誘われ
或るパーティ会場に・・。
そしてそのパーティの主役が
なんとジャン・コクトーです(笑
隣席にはフィッツジェラルド夫妻。
そう
そこは彼が愛して止まない1920年代のパリだった・・・
というお話なんですね。
そしてその後に訪れたバーでは
ヘミングウェイと出会い
さらに
ピカソやダリ、マン・レイらと親交を深めてゆく・・・
みたいな(笑
他にもエリオットにマティス、
ロートレック、ゴーギャン、ドガなんかも
登場していたように記憶しています。
慾を云えば
ユリシーズのジョイスにも居て欲しかったかナ
”新世界”の発信地であった処なんかも(笑
ですが何れにしても
1920年代のパリに生きる
芸術家たちが次々に登場してきますので退屈はしません
そもそも監督であり脚本をも手掛けた
アレン自身が懐古主義者であり
その持て余した思いを映画の主人公に昇華させた
という理解で良いのかと思っています。

そして
アレンが教えてくれたこと
それは
人が持つnostalgie性が
普遍的であろうかということ・・。

私たちが1920年代に憧れるように
その時代の彼らはベル・エポックを懐かしむ
そしてベル・エポックの彼らはもしかしたら
ルネサンス期を懐旧するのではないか
といった
旧き良き時代に郷愁感を見出す人間の懐古主義性
ある一側面を映し出したこの作品。
で、あるならば
過去に捉われず
今を存分に楽しもう
と、ポジティブシンキングに振れること
素晴らしいと思いました。

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ただ・・
(今を大切に生きながらも尚)
心ある人にのみ強力に装備されたこの能力
時間を遡って過去の特定の季節や空間に身を置き
失われた時や場所に想いを馳せ
心を研ぎ澄ませて
そこに流れる感覚に身を任す
そしてその志向性に価値を見出すことそのもののなかには
とても美しいセンシビリティーが在ると
感じています・・。













※ラストのバナー画像はモンパルナスの
”Le Dome Montparnasse”
1897年に開業したというパリの老舗カフェです。
撮影した時間帯は早朝で
いつもならモーニングもやっている筈ですがオープン前(?)でした。
1920年代にはエコール・ド・パリの画家や
パリに集った文豪たちが
芸術論議に明け暮れた社交の場のひとつとされている処です。
フランスはドイツと違ってあまり英語は通じません
ですがこちらのギャルソンはナイスでした^^
軽食もいけますがお魚料理はかなり美味♪
お店のロゴ入りのプレートも可愛らしい
ノスタルジー溢れたドームなのですが・・。















テーマ:フランス - ジャンル:海外情報

【 2013/04/08 00:00 】

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さくらの季節に愛した街~エストリル 終章~present
時の流れを見つめる・・

そんなひとときを愛しく想います。


DSC_0127.jpg


すべてが移り変わってゆくなかで

変わらないものなど

何処にもない

そうに思ってました。


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けれど

違ってた。


たったひとつだけ

ここに。

この胸のなかに・・・。







※終章となった”さくらの街”
写真は日々の風景の中から切り取ったものばかりでした。
公園でさくらを撮影していたら
小学生くらいの女の子たちがなぜか
代わる代わるに
草花をブーケ風にして
私に手渡してくれるんです。
そして暫くするとまた
何度もスミマセンなんて言いながら・・・
こちらこそスミマセン・・なのに。
ですのでこの”さくら”には
ありがとうの気持ちが詰ってます^^
小さな掌で丁寧に創ってくれた
可愛らしさいっぱいのpresentが嬉しくて
硝子の器に大切に飾っています。

ラストのバナー画像は
山手テニスクラブ敷地内の”さくら色の絨毯”です。
さくらの花びらはいつの時も
美しい姿のまま
風に乗って舞い降りてゆきます
けれど
私の胸の中のさくらは
いつまでも
たぶん
生きてる限り
散ることがないように感じています・・・。
































テーマ: - ジャンル:写真

【 2013/04/06 07:16 】

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さくらの季節に愛した街~エストリル Ⅶ
そっと掬った

記憶の破片・・・


DSC_0005.jpg


胸の疼きに

揺らいだ

匂やかな光彩は

繊美に香りゆき

心の琴線に密かに響くは

彼方からの光

耀くせせらぎ

そして


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あなた・・・
























テーマ: - ジャンル:写真

【 2013/04/04 06:37 】

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さくらの季節に愛した街~エストリル Ⅵ
DSC_0001_20130323120030.jpg



辛い時には

想い出してね



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私は

いつだって

あなたの味方・・・




















テーマ: - ジャンル:写真

【 2013/04/02 08:29 】

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