FC2ブログ
論理的思考と謂う名の誤謬~諸刃の剣


論理的思考なる表現を見かけますが
この言葉自体に
違和感を覚えてしまうんです。
思考に規則性を求めれば
その神髄は失われてしまうでしょうから。

思考は文字通り
めぐらすものであり
論理からは解放されねばならない
そうした類のものであろうかと。

何ものにも縛られず
自在に思考すればこそみえてくる
本質があり
また
閃きがあり
予期せぬ発見があり
独創性をも呼び寄せ
豊かな実りを齎す。

云ってみれば
論理は思考に対し寧ろ
後ろ向きに関与してくる存在のようで・・。

但し
その思考をアウトプット(第三者に伝えようと)する際には
これを整理し、論理的に説明する必要は
あるんですね。

          *

日常遣っている論理的(筋道が通っている)という語句には
肯定感が内包されているようですし
非論理的(論理の文脈によっては感情的)となれば
ネガティブなイメージが付き纏います。

しかし乍、当の論理自体
人類の普遍感情の集積抜きに語れないものも多くあることは
否めないようにも思うんですね。

結え、輪郭が曖昧なものを
思い込みで語ってしまうとどうしても歪がでてくる訳で。

また、哲学で云う処の
”論理の領域に属する”といった場合の”論理的”に対しては
論理的でないことをして
”経験的”ですとか”実証的”
或いは、”事実的””直観的”とも表現します。
また、文脈によっては”物理的”
時に”数学的”さえその対義語として
用いられることもあるほど
ファジーな言葉で
それを論じるには一定の注意が求められる・・。

さらには
論理的真理があるならば
当然、事実的真理もある訳で
それでは
数学的真理はまた別枠かといったような議論も出てきます。

*例えば対象を主に演繹モデルの構築におきますと*

明確な論理学
形式論理学で云えば
理論上は常に正しいハズ
ですが
特定の論理体系に適用させ
そこに具体的に言葉を落とし込んでゆくと
現実との間に乖離が生じてくる・・・
こうしたことをも踏まえるなら
緻密な法則と申しますか
推理の方法や論証の繋がりを如何にクリアに構築しても
必ずしも正当とは言い切れないケースも少なくありません。
そうした実態に思いが至らないまま
”論理的思考”をあたかも伝家の宝刀のように盲信してしまう姿勢には痛々しさを超えて
無自覚な印象さえ拭えないんです。

安易にこの言葉に縋ることから生じる様々な問題
論証、論拠不十分に振りかざすそれは
時に言葉の暴力にもなりかねない状況にも陥っているようで
看過できないものがあります。

そもそも
意義ある論証には洩れなく飛躍が付いてきます。
なぜなら一切の飛躍なき論証に
生産性はありませんから。
だからこそ、その裏付けとなる論拠は
再現性のあるものが望ましいんですね。
時に実験であり、観察であり、調査である
これ即ち経験的事実に他なりませんが
此処なんですね、これが不確かであれば
一見論理に優れたようであっても
その脆弱性が浮き彫りになってしまうという悲惨な結末に・・・。
真理値ギャップ理論等含め
論理の正当性を語るに
謹んで謙虚になって余りあると思わずにはいられません。

         *

そもそも
論理とは”言葉同志の意味上の関係性”を指すとされており
そこには必ず心理が作用してくるんですよね。
論理的であろうとすれば
必然、その関係性に
内なるすべてを集中させねばなりません。
ですので当然ながら知識・理論だけで完結できるものでなく
豊かな感性(柔軟性)や経験も
真に整理された理論構築には大切なfactorになるものでしょう。

※因みに弁証法は
論理には違いありませんが
私的にはTheory(理論)の範疇で考えてゆきたいと思っています。

以下余談ですが
本日綴った考察の先で起きた
最悪のケース。

         *

原発で生成されてしまう放射性物質を
無毒化する術(すべ)がない
そう
基幹産業として原子力発電を行う技術レベルに達していないなかで
見切り発車した原発事業。
まして、ブラックアウト(全電源喪失)したら
手の施しようがなくなるという
致命的欠陥を抱えた史上最悪の発電方法。
さらには日本は
人口密度も高く(津波被害含め)地震国でもあり
如何にも原発事業不適格な環境下にあり
そこに、あってはならない筈の原子力発電を
推進してきたのが政府高官でありそのバックについた
所謂、識者(学者)の方々であった訳です。

賢明な人間であれば
誰しもが懐疑的にならざるを得ないこの政策が
なぜこうまで罷り通ってきたのか
その敗因として
原発推進派に共通の
東大話法アリ
といった見解が出されて久しいのですが

賛否あるなか
この東大話法が
議論論破のための技法になっており
不誠実な論理から成る
欺瞞的言語体系の中枢に散見されるものであることだけは
否定することはできません。

         * 

後世の人間の立場になって考えることのできる想像力
そのままに
思い遣りさえ失わないでいたなら
こんなことは起こり得ない
極々シンプルなお話なはずなのですが
シンプルなことがシンプルにこなされないのが実社会なんですね。

         *

他者の痛みに心寄せることのできない人間だけが
”ある否定(非難)”に相当するのだと・・・・。












































スポンサーサイト



テーマ:伝えたいこと - ジャンル:日記

【 2015/10/16 23:34 】

| 未分類 | トラックバック(0) |
| ホーム |