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透明な伝達手段~誤読への問題意識
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書に親しめば
つい作者の意図を察しようと試みて読み進めるのが
読書の愉しみのひとつのようにも思われるのですが

”文章”を自律的な存在
テクストとして捉え
多様な読み方を許す
そういった思想
所謂、”テクスト論”なるものがあります。

例えばそれが書籍であれば
出版(公開)され
ひとたび、作者の手を離れたなら
著者との関係性は遮断される。

フランスの文学者ロラン・バルトの謂う
”作者の死”であります。

ポジティブに捉えれば
”作者の意図”に支配されない
書き手の立場に影響されない
読み方。
”透明な伝達手段”として
担保されましょう。

芸術的範疇に数えられるそれならば
もちろんアリです。
ですが、そうでない類のものに対し
”解釈の相違”を軽んじて良いのかと謂えば
誤読による歴史的悲劇をみれば明らかです。
そうした類のテクストを読み解くには
やはり
一定の情報、知識、読解力は無視できないものもあり
作者の純粋なる意図が汲めているのかといった
真摯にして謙虚な姿勢を欠いてしまえば
曲解という壁にぶつかり
延いては、二次的問題を呼び寄せてしまうんですね。

意図は純粋に意図のみで存在できる筈もなく
言語との不可分性を抜きに語れませんゆえ
テクストが孕む本来的脅威に背を向けて良いものかどうか
立ち止まって考えてみる必要はありそうです。

もっと言えば
テクスト論なるものは
文章から作者の意図を汲もうとする
極めて人間らしい姿勢への拒絶であり
そのまま
”形而上学批判”につながってゆきます。












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テーマ:哲学/倫理学 - ジャンル:学問・文化・芸術

【 2015/10/18 00:10 】

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