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旧くて新しい問題を考える Ⅰ
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哲学のなかでも取分け、形而上学的問題は
遠くギリシアの時代から数千年の時を超えて
殆ど進歩がないんですよね。

ですので今日に於いても
それがそのまま
主要な課題になっています。

科学が如何に目覚ましい進歩、発展を遂げようと
哲学では古代ギリシアの時代に問題提起されたそれが
現代を以てしても未だ未解明であり
よって私たちは
プラトン、アリストテレスといった時代からの
古典的著作を読む羽目に陥っている訳です(笑

ー100年に一人、1000年に一人といった逸材が
確かに存在するということも含めてー

こちら、原理的に
進歩ですとか、新旧といった視点では捉えられない問題でありまして
(例えばヘンデルと新垣隆、シェイクスピアと村上春樹、
ダ・ヴィンチとラッセンを比べて進歩を語ろうとする無意味さと少し似ているかもしれません)
そこに足を取られて
本質が見えなくなってしまうことも
ままあるよう(涙

端的に謂えば
”人類の普遍テーマ”であり
(思考停止に陥らないためにも)
indicating needleという視点に於いて
選ばれし古典は今尚意味を持つ
ということになりましょう。

確かに
人類の忘却フィルターを通過するというのは
ある意味、真理への”洗礼”とも謂え
真摯に紐解くならば、必ずや気付かされる
底知れない深さがございます。

また誠実な研究者ほど
古典的理解や方法論に立ち返るという傾向も見受けられます。
それは、
社会が変わっても
人間の本質がそう大きく変わるものではないため
人間の根源的部分に於いては
何故そうなるか
別のアプローチの仕方はありうるか
といったところで
過去の研究実績に立ち返る必要が
多分に出てくるということを意味しています。

まして
ヘーゲル、デカルトがあのように常時
論文的であったのに対し
ニーチェやハイデガーらは
物語のような文学的アプローチに終始しており
そうした手法に接することで
例えようもなく豊かな学習の機会を得られるのです。

ひとりの人間の思索、着眼点など
数多あるその可能性の中のほんの
一遍の欠片でしかありません。
ですので
独り善がりに陥らないためにも
過去の古典的な業績と自分の思索を対比させながら
方向性を見極めてゆくという作業が
どうしても必要になってくるということなんですね。












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テーマ:哲学/倫理学 - ジャンル:学問・文化・芸術

【 2015/12/08 00:01 】

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