あの日、レグルスを想って
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イルミネーションに包まれる都心の空は
深夜になっても星影はまばら
ですが
其のぶん、孤独にも凛として耀くあの存在は
貴重でもあります。

地球と謂う名の星にあれば
落陽のあとの月の光は
女神の微笑みにも似た
優しさを投げ掛けてくれる
癒しの存在ですが・・・。



       * 



天の黄道上にあるという唯一の1等星
レグルス
ラテン語で王様を意味するレックス由来のこの星。
ギリシア神話ではネメアの谷
その最も奥深くに住むという
獅子の名を冠したLeoの中にある
全天21の1等星のうちのひとつ。
地動説を提唱したコペルニクスが
命名したと謂う王の星。 

太陽の何倍もの大きさと
強い光を放つ偉大なるこの星は
二重星が互いに回りあうという美しき四重星。
77年前に瞬いた真白きレグルスの光が
漸く届いた
今だからこそ想います。

時間でも
そして
距離でもない
見えないけれど
いえ、
見えないからこそ確かなものを。





























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テーマ:伝えたいこと - ジャンル:日記

【 2016/01/30 22:31 】

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語り得ぬもの~方法論/深淵なる各思想の共通項に見る真理への道


mysticismと謂えば
ドイツかつての哲学者シェリングが
ミケーネ文明(B.C.1700)期に始まったとされる
古代ギリシア オリュンポス12神のうちの
豊穣の女神”デメテル(=母なる大地)の祭儀”を
哲学前夜の思想形態と見做し
複数引用されていた文献が
想起されます。
それは、真理(根本原理/pantheism)を求める姿勢そのものに
哲学的思考性を読み取ったからなんですよね。

その系譜を眺むれば
先ず、ピタゴラス教団
根本思想は”調和の理念”(”均整”)であったようですし
(オリジナル(プラトン)とは区別される必要があるものの)
ルネサンス期のネオプラトニズム(新プラトン主義)から派生した
後期ネオプラトニズムも、やはりピタゴラス主義に近いんですね。
また、キリスト教mysticismにしても
新約聖書の解釈の問題でありこちらも
”知性によって到達できない真理”を理解せしめるためという
問題意識から出発しているようです。
(ヘルメス思想と申しますか、ルネサンス期の古代神学は、概ねmysticismに拠っているようですが
古代神学者には幾分かの異端的イメージが付き纏いますので、分けて考える必要があるのかと存じます)
神智学的伝統とされるカバラも
その内部に宇宙原理を秘めており
以外や汎神論的世界観に通じるものが見て取れますし
(このたびご教示戴きました)スーフィズムに於きましても
内面性重視からの真理との一体化のようであり
インド哲学のアートマン思想、
個人を支配するこの原理と宇宙を支配する根源原理(ブラフマン)
が同一であるとする梵我一如
そこから永遠の幸に到達しようとする
ヴェーダの悟りもまたしかりでありましょう。
(不二一元論でありますから
我は存在しないとする釈迦の
無我を知る事が悟りとされる概念とも
矛盾はしないんですね)

かの神仙思想
そこに続く道教ですが、この中心概念(タオ=無為)も
根源的な不滅の真理を指しているようですし
密教の奥義”語り得ぬもの”も
暗に同様のそれを指しているものでしょうか。

このようにmysticism各々の理念でさえ
その共通項(摂理のような)を掬い取りますと
言葉が艘反するようですが
その合理性が浮き彫りになってもまいります。

            *

一般思想、孔子や孟子(惻隠の情)を
ブッタ(空)を
ソクラテスやエピクロスを
親鸞を
スピノザ、ゲーテ、シェリング(汎神論的)
ヴィトゲンシュタインらの思想哲学を見渡すに
西欧哲学、東洋哲学(仏教/儒教含め)のなかの
ミッシング・リンク(失われた環)的なところも
(同様の視座から)幾分か埋まってくるようにも感じます。

(人智をして、積極的に数理的法則を適用させようとした
ガリレオら西洋の科学者たちのスタンスと
すべてを受容し一体化しようと試みた東洋的見地 。
ですがきっと
自然科学から哲学に至るまでの諸研究も
突き詰めてゆくなら
人智の外側にあるものに行き着き
語り得ぬ”自然の摂理”を前に
傅かざるを得ないものでしょうか。
(如何にあってもある問いへの知的アプローチそのものの中に
快感を見出すことは否めませんけれど)

            *

どの角度からのそれに於いても
最終最後は
認識の壁にぶつかり
pantheismを思わずにいられないといったところを見据えた
自然、宇宙、世界と神との同一思想は
そのベクトルによって
無宇宙論に陥る、一方で
森羅万象にそれを見出す汎宇宙論となり
時にある種の唯物論にさえ向かい
無神論へと続いてゆく様子も伺えますゆえ。

或る絶対者を認め
その絶対者を絶対性のまま
自己の内面に於いて
直接体験しようとするという立場を
mysticismと呼ぶ時に

その絶対者の定義を神としてしまうと
無神論者(他宗教者)には理解が得られ辛いところもございますが
客観的表現に置き換えて、宇宙の究極的根拠となる存在(最高実在)
とするならば
”Providence”
そこから
永遠なるものを内に秘め
遍く均衡が保たれるべく 織り成される
必然の自然システムを思うのです。

そう致しますと
神係ったニュアンスを越えて
あらゆるものに適用されると謂ったような
自然法則(law of nature)或いは
自然律といった
解り易いお話になって参ります。

その上で
直接(合一)体験を
自己という枠に縛られない
自己からの脱却と捉えるなら
(内面を見詰めるその立場次第では)
自己は自然律に内包されるものであるがゆえに
一体化が適うという
合理的な理解も可能になってくるように思えます。

人間の内面における現象は
(端的に謂ってしまえば)
合一≒悟り≒対象を理解し愛する≒達観≒自由の獲得≒精神の解放
といったところで
(異端なそれでない限りにおいて)
自己理解、世界理解における言葉の選び方ですとか
アプローチの仕方ですとかが
異なっているだけで
究極的にはひとつ。
真理を得ることによる
無限なる人間の精神性
その奥深さを示唆しているようでありますから

そういった観点から
mysticismまで含めた多くの深遠なる思想は
”真理(語り得ぬもの/愛)”を探究し続け
自身の内部にそれを見出だし受容し
尚受容され一体と為すこと
則ち、意識の最も深いところにおいて
迷い(苦難)の絶えない囚われの思考状況から
そうしたパラダイムシフトを起こすべく方法を
考察する哲学的学科の方法論とも
受け止めてよいのかと思っています。

(ウィトゲンシュタインの有名なマキシム
--語りえぬものについては、沈黙しなければならない--
に始まり、ウィーン学派に連なる論理実証主義の系譜へ
そしてまたポパーの反証可能性からの再克服まで含めて振り返りましても
矢張り、内省的思考が言説化の壁を越えないよう
飛躍、或いは同語反復に陥らないよう
語りえないことを無理に語りつくすのが思想でなく
語り得ることと、語り得ないことを明確にしていく
この行為とその探求プロセス自体を思想(哲学/宗教)と呼ぶ真摯さは大切にしたいと・・)


今宵、東の空には下弦の月
そしてその上方に
控えめな一つ星
レグルスでしょうか
暗く沈んだ夜空にあって
互いに孤独を癒すように耀きを放っています。


























































テーマ:哲学/倫理学 - ジャンル:学問・文化・芸術

【 2016/01/28 23:48 】

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音楽のチカラ Ⅰ~惑乱せる情熱~ベートーヴェンと文学~シェイクスピア/ゲーテ/トルストイ
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べートーヴェンはシェイクスピアのロマンス劇”テンペスト”に
インスピレーションを得て
ピアノソナタの17番(テンペスト)を作曲し
トルストイは、ベートーヴェンのヴァイオリンソナタ 9番
(協奏曲にも近い)このクロイツェルソナタに
感銘を受け、(音楽を通じて心が結びつくのでは・・的)短編小説
クロイツェルソナタを書き上げたんですよね。
こうした例は他にも多くありますが
こと、ベートーヴェンとなると私的には
少しその重みが違うように感じています。
(ロマン・ロランのペンに拠るところも
大きいのかもしれませんけれど)

ベートーヴェンは、
あのような健康状態にあって
次なる交響曲
10番目のシンフォニーを
さらには
”バッハの名による序曲”を
そして
ゲーテの「”ファウスト”の為の音楽」を
その構想に入れていたようです。

当初”ファウスト”は、(1807年に)”悲劇”としたタイトルで
一部発表されたものですが
そこから5年後に
ふたりはボヘミアで邂逅しているんですね。

その場では
ベートーヴェン苦難が故の所作も邪魔をしてか
会話上では
互いの芸術を認め合うような交流は
為されなかったようではありますけれど。

ですが
少なくともベートーヴェンが
シェイクスピアに向けるが如くの
崇拝をゲーテの”ファウスト”内に
見出していたことだけは確かでありましょうし
一方でゲーテの方でも
(後にメンデルスゾーンが明かしてもいますが)
ゲーテが積み上げてきた強大な知性が制御していた
彼の清澄な精神
それがベートーヴェンの音楽性によって
揺さぶられたことへの畏れが
あのような行き違いを招いた
と言ったような解釈・・・
それが
事実かどうか私には分りませんが
ただ
偉大なる音楽とは
それだけの情性を誘発するものであることだけは
確かなことと実感しておりますので
納得できないお話でもありません。

どれだけの知的牙城を構築しようと
(当にファウストの主人公自身がそうでありましたが)
高みに上り詰めたという確信など
現実にはそう得られるものでなく
何処まで行っても
真理を見きわめ切れないジレンマ
そうした苦悩からの完全なる解放とは
誠に難しいことのように思えますので
(否、それがゆえに)
偉大なる芸術(音楽)が一瞬にして
崇高なる世界観を垣間見させること
そのものへの動揺
というものが
全くない
ともやはり思えないんですね・・・。
(文学にもそれはありますが、
読み進むうちにという時間の経過
時系列でプロットを追う其れなりの経緯なくば
不可能ですし
絵画、彫刻には、それに近しいものがございますが
いずれにしても一定の知験、或いは
こちらから能動的に入り込んでゆく必要性は否めません。
しかし、音楽はゼロベースであっても
時にものの数分で
音が時間軸上を上下しながら旋律を奏でるに伴い
一瞬のサウンド、音響効果から
それが為されるにして可能な芸術であろうかと。
そしてここで降りかかる情意が
論理的に上手く説明のつかないものである上に
尚、魂を根本から揺り動かすほど
大きなエモーションとなります結え
理性に生き
論理に拘泥する人間であればあるほど
形容し難い危うさを感じてしまうというのは
分からなくもありません。
(実は、別次元の世界観となりましょうけれど)

ベートーヴェンが手掛けようとしていた音楽は
私のようなものにとりましても
とてつもなく好奇心を掻き立てられ
魅力的なもののように映りますが
少し視点を移しますと
シューベルトの未完成交響曲が示すように
(未完性を聴くたびに想うのは)
そこで終わっているそのことによって
より一層の想像力が作動し
計り知れない余韻を感受せしめているという
芸術独特の二律背反もございまして・・・
遥かなる
そうした想いを胸に
ベートーヴェンが現に残してくれた
数々の壮大な楽曲に耳を澄ますことで
尚一層の愛しみをもって
聴こえくる何ものかがあることも否定はできませんし

クラシック音楽の素晴らしさは
そうしたところにもあるように思っています。

          *

ベートーヴェンの創作活動は
聖なる芸術への献身であり
そこから生まれた作品は
苦しむ人々を救済する
或る啓示となって
今を繋いでいるんですね・・。






                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                    

                                                                                                                                                                                                               
 
【 2016/01/26 06:01 】

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小さなInstallation/柔かな空間
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日々の暮らしを
時間の許す限り楽むための
ささやかな
ささやかな拘り

例えば読書
書庫の背表紙の並び
(初版本は堪りません)
書の香り、椅子

例えばアイロン掛け
パステルカラーのアイロンに
リバティ柄のアイロン台
お気に入りのエプロンとか(笑

お料理なら
キッチンツール
それから
器やグラス、カトラリー
食材に合わせて厳選します(笑

癒しに貢献してくれる
間接照明にAroma、
微かなBGM ですとか。
バスタイムしかりで

ささやかな空間構成に
ひと手間かけたい・・・
雰囲気を大切にしたいから。

生活を創る歓び
日々
感じてます・・。

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テーマ:暮らしを楽しむ♪♪ - ジャンル:日記

【 2016/01/23 23:31 】

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夜の空港にて Ⅱ~missing
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久しくビジネスシーンでしか
利用のなかった空港
ですが
ひとつ見方を変えれば
そこは旅びとたちが
行き交う場であり
出会いと別れの感情が
何処より交錯する空間
なのかもしれません。

そしてその悲喜交々の先にあるのは
やはり
想い
でありましょう。

         *

日常ではあまり意識しない
絆と謂う名のgravity
そうした
ひととひとが引かれあい
結び合おうとするチカラは
美しい力である一方

時にその強さゆえ
理性で抗し難いものもあり
それがそのまま
淋しさと同義になってゆく
そんなこともあるんですね・・・。




           


















テーマ:伝えたいこと - ジャンル:日記

【 2016/01/18 20:57 】

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林檎の樹/ゴールズワージー~月の輝く夜に
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ーー黄金なる林檎の樹
      美しく流るる歌姫の声ーー
            ~エウリピデスのヒポリタス

こちら英国ウェールズの小説家
ジョン・ゴールズワージーの手による
”林檎の樹”からのepigraphです。
この後には
金色に映える林檎の実・・・
と続いてゆくのですが。

         *

天上から人間たちを動かすのは
愛の神アフロディテの絶対的な力
そして、アフロディテを崇めるフェードラはヒポリタスを愛しましたが
純潔を貫くためヒポリタスはその愛を斥けます
それによりフェードラは自ら命を絶ってしまう。
そこで
その報いを受け(愛の誠実さ故に)窮地に陥るヒポリタスを救ったのが
美しき月の女神 アルテミス・・・・・・・・。

         *

かつてこうしたギリシア神話の悲劇性を見守るのは
いつの時も古代ギリシアの人々だったんですね。

黄金なる林檎という果実が撓わに実る楽園を夢見ながら
彼らは胸の痛みを癒した
そんな神話に擬えて
ジョンはこの物語を織り成したのでしょうか。

         *

透明感のある筆致が齎すこの悲劇性。
敢えて深刻に拠らない描写を執るがため
垣間見える哀しみを
選り一層際立たせるというその手法が
受け手のこころに”或る余韻”を刻印させる
そんな構成になっています。

         *

イギリスの田園風景
その詩的表現の美しさ

ーー小川はさらさらと音をたてて流れ、月は水浴び場の上に、
青みがかった鋼色の光を投げかけていた。
彼はもう一度、ライラックの陰にじっと佇んだ。
ここでは、小川のさざめきではなくて海の音が、
夜の声だったーー

そのカタチは様々でも
愛するひとを切に想う気持ちは
時代を超えて近しいもの
結え永遠に戻ることのない
ふたりの逢瀬最後の夜の情景描写を
ここに置かせて戴きます。


ーー(彼は)そっと前庭を通り抜けて果樹園に降りていった。
ちょうどいま出たばかりの月は本当の黄金色をして
丘の向こうに輝きわたり
あかあかと力強い見張り番の妖精のように
まばらに葉をつけたトネリコの枝枝の間からのぞいていたーー

 





※こちらの作品
あまりに英国的(階級意識)と謂えばそうなんですけれど
女性が本来的に備える母性にも似たひた向きさにおいて
鴎外の舞姫や川端の伊豆の踊り子
ひいては野菊の墓
ハムレットのオフィーリアに
また林檎の樹という象徴性は
藤村の初恋とも重なりまして
(こうして列記してしまうとあたかも痛みの葬列のよう・・)
本来の主題
永続的にひとつのものに
満たされ続けることが
叶わないかのような
人間の哀しき二律背反
その背後に
一途で切なる想いがひっそりと佇む逸品
となっています。
























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【 2016/01/17 04:56 】

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分水嶺を見詰めて~大きな思潮の中で
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或るエリアに降った雨雪が
それぞれに異なる水系に分かれゆく場、
分水嶺をして
物事の方向性が決まるメタファとして
扱うことがございますが
綺麗な擬え方だと感じています。


           *


そこで、所謂哲学と呼ばれるジャンルと
宗教と謂う名のそれの
分水山脈分水界を考えてみました。


両者、思想という括りに入ろうかと思いますが
いずれも厳密な定義を有する訳ではありません。
敷かしながら
一定の理解を得る手立てとしては
興味深いものがございます。

第一義的に
先ずはそこに“物語”があるかないか
といったところではないかと。

厳密なロジックとその蓄積から構成される前者に比して
(極端な)論理の飛躍をも認めてしまうのが後者でありましょう。

具体的には
死を語る要求を否定しない限りにおいて
そこで哲学は哲学でなくなります。
語り得ないことは語らない
それが前者であり
後者は寧ろ、積極的に是を語ります。
(メソッドとして便宜的に敢えて
踏み込むケースなど例外は巨万(ごまん)とありますが。)

もっと謂えば
それを”論拠なく信じるか否か”という
そこでの姿勢にこそ両者の差異は
顕著に顕れるものかもしれません。

後者の中核には
少なからず教えがあるようで
その中には悟性(抽象的思考能力)、感性、そして理性が混在し
例えば、
聖書(キリスト教)などは悟性、感性的色彩が濃く
また、三蔵/般若心経(仏教)は理性的ウエイトが大きいものの
矢張り悟性、感性的側面も少なくないようです。
こうした処からも
理性を前面に押し出した思想をして
朧げながら哲学という輪郭が見えても参ります。

一方で感性が強調されたそれを”藝術”のカテゴリで
括って差し支えないものかとも
思ってみたりもするんですね。

何れに致しましても
誰が聞いても納得できるような説明が不可能な
悟性を軸にしての論理的説明は叶いませんので
哲学では敢えて其処に立ち入らないわけで
敢然(潔く)とそこに切り込んでゆ(く)けるのが
後者なんですね。

裏を返せば
煩わしさなく(理屈抜きに)受容できる
悟性や感性をベースにした後者が
世間に永く遍く普及してきたという
現実実態とも喧嘩しません。

人生論、存在論、認識論といった
真実への”探求”がメインテーマとなる前者と
”(信仰)生活”そのものを基盤として発展した後者の
分水嶺とは
こんなところに
あるように思っています・・・。
















































テーマ:哲学/倫理学 - ジャンル:学問・文化・芸術

【 2016/01/16 22:58 】

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真に深く生きる・・・ということ
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ーー真に深く愛することは
     真に深く生きることであるーー






そんな与謝野晶子の言葉を贈って下さったあなたへ

ありがとうございます。
私も

深く生きます・・・。

紗希


















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【 2016/01/15 00:04 】

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きんぎょのおつかい~与謝野晶子の ものがたり
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与謝野晶子の絵本に
“きんぎょのおつかい”(童話処女作)があります。
こちら高部氏の挿絵
そのレトロ感も堪りませんけれど
(発表当初の晶子のお話には夢二の絵が
配されてもいたようです)

母性のひと
晶子ならではの逸品であります。 

3匹のきんぎょ
しっかり者の赤
心配性の白
甘えん坊のぶちが
新宿からお茶の水のニコライ堂の先まで
電車に乗っておつかいにゆくお話なんですけれど

新宿すていしょんでは
切符を3枚買おうと試みます。
(金魚が着物を着て帯を締め
3匹揃って切符売り場を見あげている
挿絵の可愛らしさといったら)
けれど
きんぎょさんには
お手がないからと売ってもらえない。
それでも
なんとか切符なしで乗れることになり
3匹はよろこんで
プラットホームの石のだんだんを昇って行きました。
するとまもなく駅舎に電車が・・・
ですが
三人は急に苦しくなってお水を入れてもらうように
お願いするんです。
しかし靴を脱いでお外を眺めている坊やの靴が
ぷかぷか浮いてしまうし
他の乗客の下駄や草履も濡れてしまうと
断られてしまいます。
結局、駅員さんにお水を満たした
金だらいを持ってきてもらい
その中へ♪
ぽちゃんぽちゃんと
文字通り水を得た魚状態に(笑

途中トンネル(四谷と信濃町の間?)で
白とぶちが居眠りしたり
乗り過ごしそうになりながらも
目的地(お茶の水)に無事到着して
おつかい先の家族からは
きんぎょさんが電車に乗っての
おつかいなんて
すごい、偉いと大絶賛の嵐。
ご褒美にお土産を沢山戴くのですが
手がないので受け取れず
小包にして送って貰うことに。

また最寄り駅に戻った際には
飼い主の3人兄妹が
駅までお迎えに。
しかもひとりひとりが小さな手に
ひとつひとつ小さなバケツを
持って待っていたんです。
そこでまた3匹は
ぽちゃんぽちゃん
とごきげんに。

          *

simpleで
ピュアなシュールさを含んだこのプロット
実は(巷の童話の勧善懲悪性や
貧しい言葉使いに辟易していた)晶子ママ自らが
御自身のお子さまたちに
言葉にならない愛おしみの情を付与させて
紡ぎ出したお話だったんですね。






※大正浪漫情熱の歌人
あれほどの熱き表現力を備えながら
有島への秘めた愛を抑え込み
一方では、子供達へは無償の愛を降り注ぐ
ありとあらゆるものへ
全身全霊で向き合った晶子の
汲めども尽きせぬ愛の深さに
時を隔てて尚
褪せることのない情景描写に相俟って
母の優しみその温もりが
深々と
伝わってもくる作品であります・・・。



























テーマ:伝えたいこと - ジャンル:日記

【 2016/01/13 22:26 】

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愛の拠りどころ
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人生とは
懸命に生きようとすればするほど
誠実にあろうとすればするほど


哀しみを背負い込んでしまうようにも
思えてまいります。


            *


それでも
やはり

愛の拠り所は
誠実さ

でありましょう。
























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【 2016/01/13 18:45 】

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孤独の先に~アンネの日記 完全版
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此の度,大切なひとから
アンネの日記に宛てたreviewをお贈り戴きました。
それがあまりに深いものでしたので私も
学校の図書室で読んで以来改めて
(我が家の書庫にあったのは残念ながら愛蔵版ではなく)
通読させて戴きました。
(昨今言われるようなその政治利用には胸を痛めながらも)
思春期の少女の見事なまでの精神の在り様
その内観と申しますか
自省の過程と、
どんな状況下に置かれても尚
覇気を失わない健気な向上心が
十代前半の瑞々しい感性と相俟って綴られており
その表現力ゆえに
心の琴線に響いて
響き過ぎて
かなり参っております。

当初子供心に受けた鮮烈なそれと
本質的にはそうは変わらないものでしたが
印象は随分変わりました。

想像を絶する極限状態での2年間を
ひたすら前向きに生き抜いているアンネの姿勢に
そして
同年代のお友達が持てない不憫さに
気持ちを寄せたあの頃。
そして今
上記も然ることながら
アンネの”孤独”に
想いを重ねるばかりでおります。

狭く不自由な隠れ家での
二家族での暮らし
なかでも
お父様を世界でいちばん尊敬できもし
まして淡い恋心を抱く少年もいた
それでも
彼女は“孤独”
だったんですね。
どこまでも
最後の最期まで。


         *


思春期(反抗期)という最も多感な時期であったことが
その苦悩をより助長したというそのことにも
胸が締め付けられます。

ですが
それでも
アンネは・・・

2年前までの
光り輝いていた
何不自由ない暮らし
自由闊達に学校生活を送り
周囲の皆から愛されていた
あの頃
そのなかで実は何か虚しさを感じ
大切なものに気付き得ないでいたようだ、と
けれど
壁に囲まれ家族でさえ啀み合うような不幸のなかで
彼女は多くの美しいもの
幸福を探しだすことを知るんですね。
更には、そうして
ひとは調和を見出すに至るとさえ
記しているんです。

ーー人を強くするのは
     澄み切った良心ーー

こうした
アンネの言葉が
この書を手にする数え切れないほどの人々に
どれだけの勇気を与えてくれていることでしょう。

ここでもまた誘(いざな)われます。
真なるものは
孤高の上に見出せるもの
というあの
高潔な精神性に・・・。























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【 2016/01/10 17:00 】

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夜の空港にて~価値転換(ニーチェ)を考えて~堕落論/坂口安吾
ーーそれが、抗い様のない事象であるなら
その運命に従順な人間の姿は美しいものーー



順風満帆、理想的環境の中に生きる者たちの人生と
蹉跌(ヤスパースの挫折)という名の厳しい現実に晒されながら
それでもひとり進まねばならないような
孤独に殉ずる者たちの人生

一瞥して私たちは
前者のような生に憧れるものでしょう。
なぜなら
前者には多分なる善が
義が仁が内在されているようであり
尚それが時に”感傷的”になり
そのままに”美”と映るものでもあるからでしょうか。

”にも拘らず(=カフカ的接続詞)”
そうした”美”が
ともすれば真実を伴わない
表層的で
空虚なものに見えてしまうのはなぜでしょうか。

それは
ロランにユーゴー
ヘッセにドストエフスキー他
文豪たちが描き出した作中人物らの孤独が
私たちの心を揺り動かし
捉えて離さないこととも無縁ではないように
感じています。

        *

人間の真なる崇高さは

皮相でなく
その本然にこそ
息衝くものであることを
知るひとでありたい
今改めて
そんなことを思うのです。

生の本意が(科学的)合理主義
とは切り離された領域にあるとした視座をもつことにも似て

逸楽や
享楽のなかには
ほんとうの充足がないことにも似て。

幸(楽)を求むるのは
万人にできること
ですが
“救いのなさ”“絶対的孤独”を
あるがまま引き受け
貫くことは
誰にでもできることではないんですね。

孤独のなかで目を凝らし
自身を見詰め
思索を廻らせることでしか
辿り着けない場所がある
絶対的孤独が
その高みに通ずる道程のひとつであるということだけは
否定しようのない事実のように
思われてならないのです。

だからこそ
自身では為し得ない
そうした生の在り方が
強く
深く
胸に響くものでしょう・・。

















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【 2016/01/06 01:33 】

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2016年 清らかなる月の二重映しにゲーテの生きた道を辿って・・・
明けましておめでとうございます。
本年もよろしくお願い申し上げます。

2016.1.1

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夜空に浮かぶ
静謐な月
そして
海面に映し出されているのは
耀きを増したか如くに
波間に柔らかに揺う
もうひとつの美しき月。

ファウストの1シーンに
鳥の妖精ジレーネたちが誘う
海の祭りの情景がありました。
此処では、事象の二重性が
清らかに描き出されており
その虚実の在り様に

瞳に映る姿でなく、こころで感受するものに
より一層
耳を澄ませて生きてゆきたいと
そんな印象を持ったことを今
懐かしく思い出しています。

それは
この書の3つのプロローグのうちの
初めの”捧げる言葉”に象徴されています。

ーー今現実に眺めしものは
    遙かなる世界のことであり
       既に失われしものこそ
          私にとっての現実ーー

此処で言う
失われしものとは
詩人が呼びかけた
”schwankende Gestalten”なる
揺らめく翳たちであり
即ち
こころのなかに(生きる)住む
忘れることのできない(=現実より現実的な)
大切な人たちのことなんですよね。

こちらは
ファウストのテーマのひとつでもあるようですが

手中にあっても
こころ通わぬひとであれば
遠い世界のこととした
この立場は
今を生きる私たちが
真実を見失わないように
(ゲーテが)現実と幻影(虚像)の問題を
浮き彫りにさせてくれたものと
改めて受け止めています。



            *



ファウストに読む東洋思想
その空と無について少しだけ。

無(老荘思想からの禅思想の絶対無)と
空(中論/般若心経)は
似て非なるものでしょうか。

認識されない=存在しない
とする無を
認識に対する否定的判断とし
そのように
無として実体視することさえ
拒否する概念として無を超越したそれが
”空”であるとする、相対的 空に対し
不空を超えた絶対的なものとして
理解しようとする 無。
こうした思想背景も垣間見えてまいります。

















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【 2016/01/01 14:00 】

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