FC2ブログ
分水嶺を見詰めて~大きな思潮の中で
DSC_0353.jpg

或るエリアに降った雨雪が
それぞれに異なる水系に分かれゆく場、
分水嶺をして
物事の方向性が決まるメタファとして
扱うことがございますが
綺麗な擬え方だと感じています。


           *


そこで、所謂哲学と呼ばれるジャンルと
宗教と謂う名のそれの
分水山脈分水界を考えてみました。


両者、思想という括りに入ろうかと思いますが
いずれも厳密な定義を有する訳ではありません。
敷かしながら
一定の理解を得る手立てとしては
興味深いものがございます。

第一義的に
先ずはそこに“物語”があるかないか
といったところではないかと。

厳密なロジックとその蓄積から構成される前者に比して
(極端な)論理の飛躍をも認めてしまうのが後者でありましょう。

具体的には
死を語る要求を否定しない限りにおいて
そこで哲学は哲学でなくなります。
語り得ないことは語らない
それが前者であり
後者は寧ろ、積極的に是を語ります。
(メソッドとして便宜的に敢えて
踏み込むケースなど例外は巨万(ごまん)とありますが。)

もっと謂えば
それを”論拠なく信じるか否か”という
そこでの姿勢にこそ両者の差異は
顕著に顕れるものかもしれません。

後者の中核には
少なからず教えがあるようで
その中には悟性(抽象的思考能力)、感性、そして理性が混在し
例えば、
聖書(キリスト教)などは悟性、感性的色彩が濃く
また、三蔵/般若心経(仏教)は理性的ウエイトが大きいものの
矢張り悟性、感性的側面も少なくないようです。
こうした処からも
理性を前面に押し出した思想をして
朧げながら哲学という輪郭が見えても参ります。

一方で感性が強調されたそれを”藝術”のカテゴリで
括って差し支えないものかとも
思ってみたりもするんですね。

何れに致しましても
誰が聞いても納得できるような説明が不可能な
悟性を軸にしての論理的説明は叶いませんので
哲学では敢えて其処に立ち入らないわけで
敢然(潔く)とそこに切り込んでゆ(く)けるのが
後者なんですね。

裏を返せば
煩わしさなく(理屈抜きに)受容できる
悟性や感性をベースにした後者が
世間に永く遍く普及してきたという
現実実態とも喧嘩しません。

人生論、存在論、認識論といった
真実への”探求”がメインテーマとなる前者と
”(信仰)生活”そのものを基盤として発展した後者の
分水嶺とは
こんなところに
あるように思っています・・・。
















































スポンサーサイト



テーマ:哲学/倫理学 - ジャンル:学問・文化・芸術

【 2016/01/16 22:58 】

| 気紛れドライブ | トラックバック(0) |
| ホーム |