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語り得ぬもの~方法論/深淵なる各思想の共通項に見る真理への道


mysticismと謂えば
ドイツかつての哲学者シェリングが
ミケーネ文明(B.C.1700)期に始まったとされる
古代ギリシア オリュンポス12神のうちの
豊穣の女神”デメテル(=母なる大地)の祭儀”を
哲学前夜の思想形態と見做し
複数引用されていた文献が
想起されます。
それは、真理(根本原理/pantheism)を求める姿勢そのものに
哲学的思考性を読み取ったからなんですよね。

その系譜を眺むれば
先ず、ピタゴラス教団
根本思想は”調和の理念”(”均整”)であったようですし
(オリジナル(プラトン)とは区別される必要があるものの)
ルネサンス期のネオプラトニズム(新プラトン主義)から派生した
後期ネオプラトニズムも、やはりピタゴラス主義に近いんですね。
また、キリスト教mysticismにしても
新約聖書の解釈の問題でありこちらも
”知性によって到達できない真理”を理解せしめるためという
問題意識から出発しているようです。
(ヘルメス思想と申しますか、ルネサンス期の古代神学は、概ねmysticismに拠っているようですが
古代神学者には幾分かの異端的イメージが付き纏いますので、分けて考える必要があるのかと存じます)
神智学的伝統とされるカバラも
その内部に宇宙原理を秘めており
以外や汎神論的世界観に通じるものが見て取れますし
(このたびご教示戴きました)スーフィズムに於きましても
内面性重視からの真理との一体化のようであり
インド哲学のアートマン思想、
個人を支配するこの原理と宇宙を支配する根源原理(ブラフマン)
が同一であるとする梵我一如
そこから永遠の幸に到達しようとする
ヴェーダの悟りもまたしかりでありましょう。
(不二一元論でありますから
我は存在しないとする釈迦の
無我を知る事が悟りとされる概念とも
矛盾はしないんですね)

かの神仙思想
そこに続く道教ですが、この中心概念(タオ=無為)も
根源的な不滅の真理を指しているようですし
密教の奥義”語り得ぬもの”も
暗に同様のそれを指しているものでしょうか。

このようにmysticism各々の理念でさえ
その共通項(摂理のような)を掬い取りますと
言葉が艘反するようですが
その合理性が浮き彫りになってもまいります。

            *

一般思想、孔子や孟子(惻隠の情)を
ブッタ(空)を
ソクラテスやエピクロスを
親鸞を
スピノザ、ゲーテ、シェリング(汎神論的)
ヴィトゲンシュタインらの思想哲学を見渡すに
西欧哲学、東洋哲学(仏教/儒教含め)のなかの
ミッシング・リンク(失われた環)的なところも
(同様の視座から)幾分か埋まってくるようにも感じます。

(人智をして、積極的に数理的法則を適用させようとした
ガリレオら西洋の科学者たちのスタンスと
すべてを受容し一体化しようと試みた東洋的見地 。
ですがきっと
自然科学から哲学に至るまでの諸研究も
突き詰めてゆくなら
人智の外側にあるものに行き着き
語り得ぬ”自然の摂理”を前に
傅かざるを得ないものでしょうか。
(如何にあってもある問いへの知的アプローチそのものの中に
快感を見出すことは否めませんけれど)

            *

どの角度からのそれに於いても
最終最後は
認識の壁にぶつかり
pantheismを思わずにいられないといったところを見据えた
自然、宇宙、世界と神との同一思想は
そのベクトルによって
無宇宙論に陥る、一方で
森羅万象にそれを見出す汎宇宙論となり
時にある種の唯物論にさえ向かい
無神論へと続いてゆく様子も伺えますゆえ。

或る絶対者を認め
その絶対者を絶対性のまま
自己の内面に於いて
直接体験しようとするという立場を
mysticismと呼ぶ時に

その絶対者の定義を神としてしまうと
無神論者(他宗教者)には理解が得られ辛いところもございますが
客観的表現に置き換えて、宇宙の究極的根拠となる存在(最高実在)
とするならば
”Providence”
そこから
永遠なるものを内に秘め
遍く均衡が保たれるべく 織り成される
必然の自然システムを思うのです。

そう致しますと
神係ったニュアンスを越えて
あらゆるものに適用されると謂ったような
自然法則(law of nature)或いは
自然律といった
解り易いお話になって参ります。

その上で
直接(合一)体験を
自己という枠に縛られない
自己からの脱却と捉えるなら
(内面を見詰めるその立場次第では)
自己は自然律に内包されるものであるがゆえに
一体化が適うという
合理的な理解も可能になってくるように思えます。

人間の内面における現象は
(端的に謂ってしまえば)
合一≒悟り≒対象を理解し愛する≒達観≒自由の獲得≒精神の解放
といったところで
(異端なそれでない限りにおいて)
自己理解、世界理解における言葉の選び方ですとか
アプローチの仕方ですとかが
異なっているだけで
究極的にはひとつ。
真理を得ることによる
無限なる人間の精神性
その奥深さを示唆しているようでありますから

そういった観点から
mysticismまで含めた多くの深遠なる思想は
”真理(語り得ぬもの/愛)”を探究し続け
自身の内部にそれを見出だし受容し
尚受容され一体と為すこと
則ち、意識の最も深いところにおいて
迷い(苦難)の絶えない囚われの思考状況から
そうしたパラダイムシフトを起こすべく方法を
考察する哲学的学科の方法論とも
受け止めてよいのかと思っています。

(ウィトゲンシュタインの有名なマキシム
--語りえぬものについては、沈黙しなければならない--
に始まり、ウィーン学派に連なる論理実証主義の系譜へ
そしてまたポパーの反証可能性からの再克服まで含めて振り返りましても
矢張り、内省的思考が言説化の壁を越えないよう
飛躍、或いは同語反復に陥らないよう
語りえないことを無理に語りつくすのが思想でなく
語り得ることと、語り得ないことを明確にしていく
この行為とその探求プロセス自体を思想(哲学/宗教)と呼ぶ真摯さは大切にしたいと・・)


今宵、東の空には下弦の月
そしてその上方に
控えめな一つ星
レグルスでしょうか
暗く沈んだ夜空にあって
互いに孤独を癒すように耀きを放っています。


























































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テーマ:哲学/倫理学 - ジャンル:学問・文化・芸術

【 2016/01/28 23:48 】

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