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詩神の訪れ~イェイツepilogue~永遠なる命の泉を求めて~月の光と儚さと
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若きケルトの英雄クーフリンが
漸く辿り着いた
永遠の生命を約束する水

けれど容易に
それを口にすることはできない

その水(泉)を守る女性は
鷹となって舞を始めて・・・。


ケルトの心性と能のそれとの通底に気付いたイエーツが
フェノロサ、パウンドらの能楽論を基に
”養老”をbrushupして
書き上げた”鷹の井戸”

その後本作品は逆輸入され
翻案新能”鷹の泉””鷹姫”へと
受け継がれても来たわけですが。


      *


いろいろな意味で
誤解されやすい詩人ゆえ

レッテル張りされた
イエーツ論は後を絶ちませんが

少なくとも
元来、能の国
日本のこの美意識を持ち合わせている私たちがゆえに
理解できることはあるように思っています。


      *


”月の沈黙を友”とすることで
得られる精神の柔軟性は
時に強さと同義であると。

ひたすら
合理的、現実的に生きることでは
往々にして
逆境は乗り越え辛いもの

折れるのでなく
しなる強さ
と申しますか

命の恵み
生の源であるかのような
陽の光に比し
自ら光ることも出来ず
陽光をその身に受けて
届けるだけの月光

その役割を知るひとたちには
独特の強さがあるようにも感じています。

光と翳

届かないものを求め
支配したいと願い続ける
人間の
愚かさ
無力さ

そこから
無常観を受容しながらも

鷹の神秘性に
救いを見出せるのは

余情をもてるものたちだけ
なのかもしれません。

そもそも
私たちはこの地平に立つのみで
鷹の様に舞い上がることも
井の様な深度での沈潜も許されていない。

それを叶えてくれるのは
個のうちなる精神の豊かさ
だけなんですよね。
その場所が
より多様で
より多彩であれば
厳しい現実の苦難を
上手に躱すことができるものでしょうか・・・。

儚さのうちに美を見出す詩人
イェイツ哲学からの
学びは少なくありません。


※英国ロンドンで初演されたという
音楽と舞踏、戯曲が一体となった
踊り手のための劇”鷹の井戸”には
3つの音楽が付けられているんですね。

一つ目は
(イェイツも了解していた)
あの美しき挿絵を手掛けた
画家Edmund Dulacのそれ。
音楽家でないことも幸いしてか
しっかり”朗誦”が尊重されている。

二つ目は
伊藤祐司氏。
フルートパートが付与されていますが
やはり地謡に沿っています。

三つ目は
山田耕筰氏。
前者ふたつをみかねて
作曲されたものですが
それは既に朗唱ではなく
調性感をベースにした
近代的和音の響きをもつ歌曲として仕上げられています。

スクリャービンの影響を受けて
舞踊詩を多く手掛けていた山田氏ですから
彼らしい表現主義的な作品といえばそうで。

そして何より
内省的で、人生の意味を問い
謳い上げられた
イェイツの詩にふさわしい
調性の揺らぎがあって
それを、多様な和音にしてハープに乗せ
さらに
心理描写を備えた歌唱旋律を持ってきた山田氏
その作曲手法は見事としか形容の仕様がありませんが
朗唱の魅力は失われているんですね。

イェイツの詩は英語ですから
朗誦に適した
等拍的リズムを付けるのが難しかったという
その理由は容易に察せられはします。

ですが
西洋演劇と能の融合を目指した
イェイツとデュラック
彼ら本来の意図である
地謡風の英語での朗唱は
”鷹の井戸”には、欠かせない要素であり
まさにそこが
彼らの苦しんだところでもあるんですよね。

非西洋、日本的(能)志向を狙った
前者ふたつの曲性と
能の素養を排除し
別の文脈からの解釈で
西洋モダニズム的に創作した
山田氏の試み

ですがそのおかげで
私たちは
それぞれの表現の違いを愉しむことができる
そのことに感謝しています。

















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テーマ:つぶやき - ジャンル:日記

【 2016/08/24 12:47 】

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