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主語の論理、述語の論理 Ⅰ


日本では20世紀初頭
九鬼の訳に始る 実存 の概念は
アリストテレス”主語の論理”の立場(実在)からの系譜

そして、かつてのプラトンが唱え西洋思想に沈んだ
”述語(イデア)の論理 ”こちらは
(お気づきの方もいらっしゃるかもしれませんが)
日本古来の自然観に近しいんですね。

こうした眼差しで思想史を見渡すに
西洋は”主語の論理”傾向にあり
自己は、国家観 、社会観
世界人類共同体への理念、論理を開く
といった精神構造。

東洋は”述語の論理” 傾向で
自己は(究極の述語)儘、全自然、自然生命観となり
”もののあわれ”という精神的態度となって
自然と一体化しゆく思想性。

”主語の論理”も”述語の論理”も
いずれも存在根拠の追究には、違いないんですね。
ですが、存在、非存在という視点でみれば
好対照の思考態度と謂えましょう。
(強いて言えば、ハイデガー。彼は西洋に於いて数少ない非存在に
注心して論理展開をした人物ですが
それでもその非存在は、
あくまで”存在の否定”でしかなく
”存在”の域を逃れることは叶わなかったんですよね。)

かの西田の書には
”非存在を考慮した思想”で貫かれた東洋の文化への
こんな記述が残されていまして
それが私の胸の奥に沈潜してその場所を譲ることがありません。

ーー形相を有となし
形成を善となす西洋哲学の絢爛 には、
尊ぶべきもの学ぶべきものが許多なるは、云うに及ばないが
幾千年来の我らか祖先を育みつつ来た、東洋文化の根底には
形なきものの形を見、声なきものの声を聴く
といったようなものが潜んでいる
我々の心はかくのごときものを求めてやまない。
私はかかる要求に哲学的根拠を与えてみたいと思うのであるーー



















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テーマ:哲学/倫理学 - ジャンル:学問・文化・芸術

【 2017/03/05 07:28 】

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