時間*fragmentation Ⅵ
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そうしたなかで数量化或いは
空間化(時計で測る時間=時計の針が動いた文字盤の長さ=空間の長さ)されゆく時間を
時の経過そのものの時間(純粋持続)と区別しようとした彼ら。

そうして西洋で展開されてきた様々な時間論
取り分け、
記憶と知覚の関係を円錐形で表したベルクソンの方向性と
時間が時間として構成される最も根源的な形態を問題にしたハイデガーのそれは
真逆でありましたけれど。

こちら、先に記したように
時間の表象は極めて曖昧ですゆえ
その視角の差が
そのまま表象自体の差に繋がってしまうが故のことでしょう。

個人的には、ハイデガー(フッサールも近しいですが)の言う“人間の時間性、時間化”
所謂“時熟”の概念を胸に留めていたいと思ってはいるんですね。

なぜなら
自らの有限性を引き受けると申しますか
時間の内なる存在を自覚してこそ
凛とした生き方が叶うように感じるからであります。














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テーマ:つぶやき - ジャンル:日記

【 2017/06/07 09:57 】

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