現代の私たちには、あまり馴染まない
ギリシアの輪廻転生や
シャーマニズムにも結びつくこの概念をして
ニーチェの記述は印象的でした。
ーー世界を一定量の力として
一定数の力点として考えることが許されるなら
その存在の大いなるサイコロ遊びのなかで
有限数の組み合わせ、経験数の組み合わせを
経験していると帰結できる。
無限の時間のなかでは
可能なあらゆる組み合わせは
いつかは一度は実現されてきたであろうし
まして無限回の実現もあろう。
もし世界が有限量の力、力点からなっているとすれば
エネルギーが恒存である以上
世界の事物の配列は有限である他なく
従って無限の時間経過のなかには
同じ配列が反復されざるを得ないーー
~力への意志
さらにツァラトゥストラに至っては
ーー 一切の直線的なものは嘘をつく
一切の真理は曲線的である
時間自体がひとつの円環であるーー
こうした一連の
ニヒリズムにして
最大の定式化回帰思想。
となれば
無限に反復される回帰のなかで
意味を持ち得る人間的努力はあるのかなんて
そんなところへさえも思索はめぐります笑
ですが彼の到底の視点ー認識が生み出す世界ーに立つならば
世界の事物配列の有限性と
時間の無限性という仮説
その反復可能性を一笑に付すには早計のよう。
無論、ニーチェ自身
時間の円環性が結びつく
積極的理由のないことも承知の上の”告知”でありましょうから。
そう致しますと
回帰し得るもの
それは、
時間そのものではなく
現象の形式
という理解になってまいりましょうか。