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覚悟
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哀しいまでに
意味を探し求める人間
恰もそれが本能であるかの如くな
人間存在の様式。
そしてその過剰な意味付け故
齎される苦悩
閉塞感
よって意味付けへの拒否の物語が始まる

例えば、日本で20世紀後半に
かのシェイクスピア”マクベス”を
或いはマルクス”資本論”を
引き合いに論理展開された
文芸評論以前に
かつての仏蘭西実存主義に始っていた
過剰な意味付けへの懐疑に
終わりはないようです。

”マクベス”冒頭の魔女の呟き
ーー綺麗は汚い、汚いは綺麗ーー

そうして
いかにもシェイクスピアが
固有のリアリティを示したかのような
評価の先で
論理の自律的法則が認められ
世の指導者たちの(知的)不誠実性が
今日に至るまでに
どれほどの悲劇を呼び寄せてきたことか。

一方で
マルクスが云う処の資本制生産様式
等価交換?
果たして
等価などあり得るのか
等価と見え
実は?

労働の同質性を抽出したマルクスの論理操作
その同質性措定を眺るなら
当に、貨幣経済の拡大のなかにこそ
顕れるものでありましょうし。

        *

思い返せば
サルトルが、あの時既に
ロカンタンに語らせたていた

ーー現象は存在に先立つーー

ヴィトゲンシュタイン的ではありますが
言葉を使う以上は
意味付けの呪縛から完全に逃れ出ることなんて
できないんですよね。

だからこそ

意味付けという過剰に過ぎる要請に対しては

“投企する存在”としての人間
その覚悟こそが求められるのではないかと。

自由の意味
とはそうしたものでは
ありませんでしょうか。

さらには
現実を真摯に引き受ける潔さと

主体性を超越した
”意味”を見詰め
言語に語られた意味、
その回復プロセスのなかにこそ
人間らしさが息衝いているようにも感じています。















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【 2018/02/27 17:39 】

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