
個人領域(小さな集団)に限定されたストーリーに長く接した時に感じる得体のしれない空虚感
その理由を考えてみました。
私たちは皆一様に自然に取り巻かれ
共同体のなかで生きています。
そこで
根源的存在論ではありませんが
やはり人間に与えられた”贈与論的構造”
平たく云えば
自らの存在自体が贈られた存在との認識に立つなら
その”お返し”に
社会のために生きること(自己贈与の欲望)で
自己充足を得る
といったような(中半、本能にも似た)精神性が育まれる
こちら確かに労働の原理性
或いは”社会性”ですとか”政治共同体”の原理的研究書物に援用される
労働社会的相互作用の一般理論
さらに言えば所謂”犠牲のメカニズム”に説得力を持たせるに貢献はしているようです。
多くのひとは、学びのために与えられた季節を過ぎ
社会人となれば
政治,経済,法といった社会諸相抜きの
個(家族や学校、会社など小さな集団)の世界観のみに没頭するだけでは
充実(生甲斐)を得ることが難しくなってくるのもまた
確かな現実でありましょう。
よってこうした精神性は
社会生活と観念形態を貫いている
ということは謂えるのかもしれません。