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言葉は想いを越えられない~Ⅰ
ひとは誰も 完全、正確な言語化が出来ない
~Jacques-Marie-Émile

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今までも
そしてこれから先も
完璧な思想というものは
存在しえないのだと・・・。

よって
瑕疵のないそれも恐らく、なく
それはそのまま
思想の限界を示していることにもなります。

なぜなら
すべてを網羅し
あらゆる視点から
語り尽くすには言葉が足りないから。

けれどこの不可能性の御蔭で
真実に現実性が与えられている
というのもまた
紛れもない事実なんですよね。

論旨(著者の人間性含め)の瑕瑾を
選れてカバーしながら
如何にそこから有意性を掬い取り血肉にするかは
読み手の力量(器の大きさ)に懸かっている
そうした真摯さ
謙虚さを備えておかねば
大切なものまで
指先から零れ落ちて行ってしまいそうで恐いんです。



         *



ラカニアンなる言葉が生まれるほどに
独特の磁力を放つ精神分析家
ジャック・マリー・エミール・ラカン
原典を幾度読み返しても
(日本語訳は拙訳が多いので英訳お勧めです)
しっくりこないものが残るラカン理論
結え深みに嵌ってゆく・・・。
逆説的ではありますが
釣り人は釣れないことを好むという
あの感覚にも少し似て
ラカンの海はマニアには堪らない^^

なのですが
どこまで云っても
すべてを解読できない
その理由は
(一義的には)
ラカン理論が体系的でなく論理性がない(部分がある)から。
(私の友人にもラカニアンいましたけれど
漸くそれに気付き卒業しています。)
けれど
その非論理性は批判にはあたらないと
個人的には思っています。
(実際、ラカン理論って、構造主義でフロイトを貫いて
そこにヘーゲル、ハイデガー(時々カント)の
哲学理論を振りかけたようなとこあるんですね。
と申しますのは
哲学者は彼らを体系的に読み込みます
(否、体系的にしか向き合えない)が
ラカンはそれを器用に切り取って代入する
結果、論理の飛躍に陥るといったような状態。)
ですがそもそも彼自身は
哲学的観点でなく
精神科医として精神分析の技法を語っていたに過ぎないんですよね。
それは
何よりラカン本人が繰り返し述べてます。
”私のディスクールは大学のそれではなく
精神分析のそれだと”

あのような独自のメタファを導入しながら
精神分析学を探求した
ラカンの手法自体は、ほんとうに偉大だと思っています。
そしてそれは
人文系での人間精神の理解をも助けてくれる
極めて汎用性の高いものでしたし。

ウィトゲンシュタインは論理の壁で挫折して
日常に舞い降りてきたものですが
ラカンは徹頭徹尾
日常に溢れる豊穣な言語世界を見詰め続けたひと
こんなところからも判るのですが
ラカンは
論理でなく
修辞の学者なんですね。
そう
そんなラカンだからこそ
かつては私も惹かれたんです(笑

西欧でいう古代、中世
このあたりまでは
教養の中核は、修辞学が担っていました。
ギリシア時代を鑑みても
ソクラテス、プラトンに始まり
学問は修辞学で発展してきたんですよね。
現代のこの逆転現象は
近代化の”落し物”
という気もしないではないほどに。




















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テーマ:哲学/倫理学 - ジャンル:学問・文化・芸術

【 2015/11/21 00:00 】

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