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自然主義〜田山花袋〜国木田独歩〜島崎藤村〜夏目漱石へ
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文学って
特定の作家を研鑽しながらも
相反する作品その階層的コントラストを
合わせて鑑賞してゆくと
より深い理解が得られるような処
ありますけれど。

国文ならば
例えば
日本自然主義。

同じ立場にありながら

“時は過ぎ行くなり”として
一切の事象を流転の相として
時の流れのもとに眺めた花袋と

“時は過ぎ行くにあらざりなり
我過ぎ行くなり”
と考え時間の経過より
人間の営み
その変化に意味を見出した藤村。

言って見れば
時間の流れ(自然)を客観的に観照する花袋に対し
藤村は、人間の生命力そのものを自然と考え
その充実と実現を目指すべく
自我の生成変容を見つめ続けた作家であったかと。

結果、
藤村は花袋をして
“ひとの葛藤でなく
自然の力を主体とするなかの
人間の悲劇的位置を描写する”作家と
評しながらも
そうした有り様に物足りなさを禁じ得ず
時間に抗するがための
人間の最後の望みを
描出していないことに疑問を
提します。

藤村の姿勢は
時間の力より人間の力
と申しますか
社会通念(宗教含め)に捉われずに
現実的態度を以って自然見つめるものであり
それはそのまま
永遠を摑みとるが如くの
生の充実を謳うものでありました。

一般に
自然主義作家で括られながらも
その自然観は
物理的チカラ
動物的もしくは
西洋的とも言える人間の本能的チカラ
或いは
機械的合理的な自然など
実に多様。

花袋も年を重ねるに連れて
デビュー当初のsentimentalismから
藤村が評したような
彼流の自然主義へと変遷を見せもする訳ですが
それは時に東洋的虚無主義
諦観にも似た
仏教的境地と近しい世界観
(ココはフランス自然主義がゾラあたりからユィスマンスに
向うに従い宗教的傾向を強めたのに重なります)
そして
こうした視点から
形而上に押し上げていったのが
例えば国木田であり

同じ自然讃美にありながらも
そこに
自己を見出し、改革し、進化させ
生の意味を見出そうとした
藤村のその文学的技法は
自然から真実を掬い取りもした。

此処
真実は真実であって
事実とは
似て非なるものでありまして。

こうした藤村の言わば循環的発展
に比し
弁証法的展開を見せたのが漱石であった訳で

文学の確信は
こうした処にも
息衝いているということなんですね…。





























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テーマ:つぶやき - ジャンル:日記

【 2016/08/02 01:52 】

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