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或る詩学 Ⅰ〜レビィストロース/ラカン/フーコー~言語不信~歴史の開放~セルバンテス/ドストエフスキー~藝術の意味
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それぞれのアプローチは異なっていますが
人間の意識を深層構造で見ようとした研究者たち
人類学的視点の
レビィ・ストロース
心理分析的眼差しのラカン
そして
哲学(構造論)的視座でのフーコー

ですが
取り分けフーコーだけは

”社会”とか、”文化”とか、延いては
”人間”といった言葉が
実は、相対的なものの総称に過ぎないことを
示し
私たちが言語学的議定に陥ることの危うさを知らしめてくれた。

それはそのまま
混沌から秩序を峻別するような
体系拒否的姿勢であり

一言で言ってしまえば
言語不信そのものであります。

そうしてこうした立場が
後のフーコー流歴史学に繋がっていったんですね。
(フランスの歴史学者ミシェル・ド・セルトーにもかなり近い)

客観性と言う
幻想から
歴史を・・・

”歴史”を解放したんですね。

見馴れたものを
見慣れないものにする
知的作業と申しましょうか。

かつてのミシュレやニーチェが
見出しながらも
時代にかき消されてしまった類のあの作業であります。

           *

ーー真実がフィクションにより救済されているーー

こちら
ドン・キホーテに対する
ドストエフスキーの評でありますが

フィクションという手段を通じてしか
達することができない事象って
確かにあるように感じています。

経験的方法が
少しも役に立たないといったような
現実のある層。

現実を規定する
現実以前のもの

謂わば”不動の真”

          *

可視の歴史テキストのうちに
不可視の歴史の変化
あるメタファーを読み取る必要があるということ。

そのひとつが藝術であろうかと。

それは時に
そのままに
"人類経験の深みを探究する過去"と
換言もできましょう。










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【 2016/08/03 01:08 】

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