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主語の論理、述語の論理 Ⅱ
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先の記事のように
西田の哲学的根拠を待たずとも
この
日本古来の哀愁に満ちた美しい概念
非存在への深い配慮を
私たち(日本文化)は無理なく受容してきました。

また、彼の説く”述語の論理”
非存在(ない)からの存在(ある)への指向性さえも
身体に染み付いてるように見受けられます。

ですが西田のような
(異なった文化圏であっても理解できるべく)
哲学的眼差しで宥れば
其処では”自己としてのある”がどうしても希薄なんですね
それが、彼の憂う
”ないの文化”の弱点であり、不明瞭さの所以にもなりましょう。
併し乍ら、ハイデガーが行き詰まったように
”ない”は ”ないの文化”から考えなければ
真なる理解は叶わないというのもまた
事実のようであります。

主語(はじめ)の主語の研究と
述語の究極段階の研究と
ざっくり二極分化して来た思想界にあって
20世紀を迎えるに前後して西洋では
この”ない”の問題が起こりましたよね、
世に言う実存主義哲学であり
西洋思想に根本の反省が与えられてゆく…。
(日本の戦後実存主義に比して深刻さがありました由)

そして(というか、だから)
生命観にも重なりゆく
大乗仏教の根本、空の思想 。
こちら、古代インドはサンスクリット語の漢字訳であったようですが
此処で
”色即是空、空即是色” (形あるものは空 、空こそ形あるもの)
が想起されてまいります。
是、西欧哲学風に語るなら

ーー色は空の現れ
      空は色の中に宿る ーー
といったところでしょうか。

さらに哲学用語に換言するなら
ーー”空”は超越であり、あるを超えた”ない”
であり
その”空”は”ある”からの問いかけ、
”超越論への道 ”ーー
になってしまうんですね(涙

”空”はあくまで
ない からの ない
であり
ブッタのパーリ語からの伝承
それは、大いなる死 であり

ーすべてのものは過ぎ去ってゆくー

当に、法顕の名訳、名文
諸行無常 であります。


ない の起源 を見詰めるたびに
胸を去来するは
日本古来の
生命への あはれ の美観。

それは、
西洋の実存をも包み込む
安らぎなる高次元での ない であり
優れて豊かな思想表現と云えませんでしょうか。















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テーマ:哲学/倫理学 - ジャンル:学問・文化・芸術

【 2017/03/06 17:16 】

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