![]() ことこと カラメルソースを作っていると 思いを馳せるのは ベルクソンの創造的進化。 それは、芸術論と見紛うばかりの哲学的一見解でした。 と申しますのは、彼の理論からは 私たちをを取り巻くあらゆる物質 その物質世界をひとつの 芸術作品として捉える そうした眼差しが見て取れましたもので。 確かに物質世界も、また芸術世界も 似たひとつの説明方式を備えている点で 共通項がありますゆえ ここまでの理解は容易です。 ですがその先 物質的世界の創造が如何にして 藝術に擬えられ論証されていたか 此処なんですけれど。 存在の本質が意識にあるならば 意識=実在、物質=非実在といった構図が生まれがち ですが、ベルクソンは 物質の中にもある種の実在を認めるんですね なぜなら科学者たちが一瞬にして導き出す溶解の数式に対し 実際には、ある物質が液体に溶けるまで 一定の時間を要することに注目したから。 ここに、意識様の実在原理を基盤とした現象を見出したんですね、 ベルクソンは 意識を、外界に押し広げて世界を見渡したわけです。 一瞥しただけでは、そこに 論理の飛躍は埋められない そんな印象も拭えませんが・・・。 ただ、存在様態において語るなら 意識は運動し、物質は不動 といったようなそんな二元論では割り切れない現象があるのは、否めない訳で。 そして例えば、 画家が、カンヴァスに絵を描く行為をみた時に それをひとつの運動と見做し そこに引かれた線、色彩を”運動の痕跡” とした見解に立つならば 物質世界と芸術作品が構造上似ているというのも 強ち分からなくもないんですね。 さらには、流石のベルクソンも 芸術作品が必ず内包する根源的躍動(自己完結せずに、制作の働きと成果物の一致を見、互いに表象し合い躍動する) そこから放たれるメッセージ性などは 物質世界には、一切認めてはいません 物質は当然ながら物質世界に埋没するのみであろうと。 此処がベルクソンの謂う ”癒し難いリズムの差異” といったところでありましょうか。 そんなベルクソンの物質的世界の理解を 私は好ましく拝読させて戴いたのですが(笑) さらには、物質がもつ”spontanéité” この”自発性”抜きに藝術が語れないというのもまた 見過ごされがちな事実ではないかと・・・。 藝術の領域で 表現者の意図が、そのままにくまなく表出されることの方がむしろ稀で 創造とは 作品上に配置されたる物質 その物質側の運動(偶然性)と、切っても切れない関係性にありましょう。 よって、両者の統合の上に構築されたるもの それが藝術であり であるが結えに、 そこから私たちが受け取る豊饒なる世界観は 自ずと大自然を擁することから 測り知れないほどの大きな 精神への贈り物となって 立ち昇ってくる・・・ こちら、かのミケランジェロが残した言葉 ー大理石が内包せし真なる藝術。 芸術家は、ただそれを掘り出すだけー に通じてもゆくようです。
スポンサーサイト
|
![]() |
![]() |
| ホーム |
|