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アルハンブラ宮殿Ⅵ~スペイン史~レコンキスタ/国土回復運動~スペイン大航海時代~カルロス~スペイン異端審問~
Alhambra120109 078

ーースペインは、全てを持ち合わせている
            唯一”政治”だけを除いてーー




スペイン史を紐解けば
争いの歴史
つい20世紀の後半まで国の政情が安定することはありませんでした。

それを裏付けるかのように
スペインの名もなき地方に延々と続く荒涼とした土地。

ムーア人王朝と共に在ったアルハンブラも
歴史に翻弄された宮殿であります。
13世紀のウマイヤ朝末期初代の王ムハンマド1世(1238~72在位)の
首都グラナダの時代から、イベリア半島最後となるムスリム政権ナスル朝期に
その多くが建設されたといいます。
そして14世紀、ユースフ1世の代に一応の完成をみたというアルハンブラ宮殿は
ムハンマド1世統治時代から14世紀末レコンキスタの完了のときまでの
グラナダ王国260年間、文字通り難攻不落の城塞ではありました。
イベリア半島の歴史を遡ると
紀元前8世紀、タルテソス文化ゆかりのフェニキア、カルタゴ、ギリシアの人々との交流も盛んだったイルトゥリルと呼ばれるケルトイベリア人たちは
紀元前には、既にローマ帝国に支配され、イリベリスと呼ばれるようになります。
そして5世紀西ゴート王国の支配下に入り6世紀にはトレドが首都に制定されます。
8C初頭に北アフリカからジブラルタル海峡を越えてイベリア半島に侵攻した”ムーア人(イスラム教徒)のウマイヤ朝”は、グアダレテの戦いで勝利を収め、これを機にピレネー山脈の先まで北上を続け
一方イベリア半島南部ではグラナダの肥沃な土地”ベガ”に入植しグラナダを占拠していました。
こうしてイベリア半島はイスラム色が濃くなってゆくんですね。
ウマイヤ朝は、グラナダ郊外のユダヤ人のコミュニティー”ガルナタ”の支持を集めながら(ターリクはイベリア半島でキリスト教化を推進した西ゴート王国とは対照的に改宗を強要せず宗教に寛容であり続けジズヤを納めれば信仰の自由を認めていましたので、この頃には既に他宗教との共存共栄が始まっていたということです)このエリアをイスラムで”ヴァンダル人の地”を意味するアル・アンダルスとして征服し、此処はアンダルシアと呼ばれるようになります。
また8C半ばには、分裂の兆しを見せるウマイヤ朝分子がコルドバを都とした後期ウマイヤ朝を建国し
イスラム教徒のスペインほぼ全域制圧が成し遂げられました。
ですがレコンキスタは既に開始されています。
レコンキスタと云えば、サンティアゴ・マタモーロスという呼称が象徴するように
スペインの守護聖人でもある聖ヤコブの活躍が想起されます。それは現代にも脈々と受けつかれている
サンティアゴ・デ・コンポステーラへの巡礼路を見ても明らかです。
またローランの歌の切欠となったロンセスバージェスの戦いがあったのもこの時代です。
そこから一進一退を繰返しながら向こう800年間・・
スペイン史の何れかのパートがイスラム色に染まり、モーロ人の文化はここに華開いて行きました。
そして10世紀には後ウマイヤ朝が最盛期を迎え
11世紀末ムラービト朝がコルドバとセビリャを占領しリスボンを制圧、隆盛します。
しかしレコンキスタの巻き返しで早くもポルトガル王国が樹立。
12世紀半ばには南部は
拠点を北アフリカに置くムワッヒド朝支配下に入り
後半にはマドリード、トレドに進撃、その鎮圧に実に20年の歳月を要したといいます
(カタルーニャ地方においては一旦はレコンキスタが完成したかに見えたのですが
最終的にはフランク王国とも距離を置く完全な独立勢力となります。)
その後十字軍との合流もあり1212年、ラス・ナバス・デ・トローサの戦いでムワッヒド軍がキリスト教諸国連合軍に大敗しますが勝戦国が後継者を失うなどしてアンダルスは群雄割拠のような状況に陥るんですね
イスラム勢力の栄華は南に追い詰められてゆく過程の中での危うく不確かなものでした。
そんな不安定な状況の中でズィール朝の一族がグラナダを征服し
生まれた王朝がナスル朝、タイファ諸国の1つであるグラナダ王国の成立です。
ムハンマドは王を名乗り、1238年にナスル朝建国に伴いグラナダを首都に制定し
名実ともにアンダルスの支配者となります。
彼は、即位と同時に、この砦を王宮にし
1246年にはフェルナンド3世と条約を結び、カスティーリャに臣従して貢納する代わりに、
グラナダ、マラガ、アルメリアを保有することを承諾させます。
前後してコルドバ、セビリャがレコンキスタの波で陥落してゆき
結果イベリア半島に残ったイスラム勢力はグラナダを中心とするカディスからアルメリアまでの
アンダルシア(地中海沿岸地区)のみ となります。
文字通り、ナスル朝グラナダ王国はイベリア半島最後のイスラム王朝となり
この時点からさらに約250年間の時代を下りながらイスラム色を維持し続けました。
イベリア半島最後のイスラムの砦となった所以もここにあります。

グラナダ王国が最もさかえたのは、7代目のユスフ1世の時代で
グラナダの人口は実に40万人に達します。
キリスト教勢力の脅威に加えて、内部の覇権争いも弱体化に加速をかけ
難攻不落と謂われたアルハンブ宮殿は10年間に渡るカタストロフ状態、最後の2年間は攻城戦に陥り
そして15世紀末の1492年1月2日
イサベル女王とフェルナンド王に代表されるカスティーリャ王国とアラゴン王国のキリスト教連合軍に降伏。
ムハンマド12世は圧倒的なキリスト教軍の前に為すすべもなく
このカトリック両王に彼が愛したアルハンブラ宮殿の鍵を渡します。
無血開城 グラナダ陥落の瞬間です。
イベリア半島からすべてのアラブ王国が駆逐された国土回復運動完成のときでありました。
グラナダ最後の王は、涙を流しながら、アルハンブラ宮殿を後にしたといいます。
スペインキリスト教国復権、宮殿の塔には銀の十字架が掲げられます。
イスパニア王国の成立
イスラム支配の幻の輝きを放つ歴史的文化遺産、偉大なアルハンブラ宮殿という芸術だけがそこに残りました 。
奇しくも
グラナダを征服したイサベル女王の援助を受けたコロンブスが、アメリカ大陸を発見した年。
大航海時代、スペイン黄金時代の幕開けの年でありました。

実は
イスラム、ナスル朝も、他のイスラム支配の例に漏れずキリスト教、ユダヤ教に寛大な王朝で
グラナダに多く居住していたユダヤ人達はレコンキスタ完了後は、
キリスト教徒等により、ユダヤ教徒虐殺という宗教弾圧を受けます。
世に謂うスペイン異端審問ですね。
グラナダを追われたユダヤ人たちはオスマン帝国などに保護され
この辺りからユダヤ人は各地で経済発展の一翼を担うようになっていったんですね。

そして
神聖ローマ帝国皇帝カルロス5世は
(ここスペイン王としてはカルロス1世ということになるのですが)
コルドバのモスク跡にカテドラルの建築を始めます。
またイスラムの栄華そのままに残る美しきアルハンブラ宮殿を自らの治世の本拠地とすべく
この王宮の南に、ルネサンス様式の宮殿を増築するんですね
これがカルロスⅤ世宮殿です。
ですので一瞥イスラム建築のアルハンブラ宮殿内にはカトリック王家の紋章、
壁にはアラビア文字を縫うようにキリスト教文様が刻まれています。

さらにこの工事は完成を見る前に
イスラムから改宗させられたモリスコの反乱が起こり
アルハンブラ荒廃の時代を迎えます。
現在も修復工事は続いていますがいかに修復されようとも
アルハンブラは未完の複合的宮殿であります。

※レコンキスタ(reconqista)は、イベリア半島において8世紀初頭から約800年間続いたキリスト教徒とイスラム教徒との闘争の歴史、国土回復運動或いは再征服運動と訳されていますが
運動と呼ぶにはあまりに過酷な史実が多数残されており、個人的にこの訳にはかなりの違和感あります。

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テーマ:スペイン - ジャンル:海外情報

【 2012/10/20 23:35 】

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