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マルクスへの気紛れ交響的断章 終章~ヘーゲルVermittlung
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ヘーゲルにとっての哲学は哲学史全体でした結え
(ヘーゲル弁証法とは、自己意識の中の運動ですから 全体が見えなければならない
部分だけ見て分かったような感覚に陥るのはある意味 楽で羨ましいのですが)
全体を見渡すという観点にのみ成立しうる理論であり
時代は移り変わりますから、ヘーゲル美学もまた推して知るべしな面は否めません。

そしてまたマルクスの如く
作品が作者を創る側面も確かにございましょう。

けれどマルクスのこの一連の主張を認めてしまえば
(歴史の背後に息衝く精神もまた想像物に過ぎなくなるハズであり)
彼が強く主張していた類的本質としての人間存在の実現など
あり得ないということになってまいります。
こうした論理矛盾の数々
なんとも人間味溢れる経哲草稿であります。

しかし、マルクスに限らず瑕疵のない思想はありません。
さらには、時代(背景)が変われば書々は必ずや
読み換え、本質を抽出する必要に迫られます。ですが
そんな必要にして最低限の配慮も出来ないままに
断片的に読み誤ったマルクスの思想基盤から
人間の本質に背いた理想主義的目標が設定されてしまい
さらには、その目的のためには手段を択ばない姿勢
ともすれば、革命という名の暴力的側面を備えてしまうことは
既に歴史が証明しています。
(ロシア、中国、カンボジア、エチオピア、北朝鮮各国で
何を引き起こしてきたかを抜きにマルクスは語れません)

確かにヘーゲルはマテリアルを軽視しました。
そしてそこに異を唱えたマルクス
ですが
マルクスの一連の論理矛盾を読み解くなら
彼がmaterialistなのは
そもそもが唯物論者だからではないようなんですね。
ただ、イデアを退けマテリアルに付こうと試みたから
こうしたマルクス主義は、寧ろidealismのようでもあり
一連のイデオローグは
”意味という病 ”という印象が拭えないのです。

マルクス的唯物論もヘーゲル的観念論も
観点が異なることを鑑みるなら
実は、両者さほど相反する概念でもないんですね。
(二元論で語れるようなレベルの対象ではありませんし)

アリストテレスやヘーゲルを否定した
マルクス(ニーチェしかり、キルケゴールしかり)をさえ
既にヘーゲルが含んでいたこという現実も
それを知らしめてくれているようです。


*革命と一口に謂っても…。

歴史を見渡しても
所謂、ブルジョワ革命(日本では、西欧にはない“市民革命”を訳語に当てたりもしているようですが)
と呼べるのは、アメリカ独立革命くらいでしょうか。
(イギリス革命もフランス革命もその意味では不完全でした由)
こちらの革命は、封建社会或いは絶対王政に対して
市民(ブルジョワジー)が蜂起し、市民の自由・平等、政治的権利などを
獲得するタイプの変革を指しています。
結果、ブルジョワ(産業資本家層)が政治的権力を握ってしまう革命であり
例えば、フランスの二月革命に見られるように
革命自体が
市民内部の資本家層と労働者層といった新たな対立軸の萌芽を含んでいます。
ですから、マルクスが示唆した革命
プロレタリア独裁は
“ブルジョワ(“資本の支配”をその客観的な目標としている)革命”
にのまれ不可避的に圧砕される宿命を抱えてしまう。
そしてこれが
人間という生き物の在り様を端的に示しているということに
私たちは、思いを致し
その融和をこそ目指さねばならないんですよね。)






























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【 2018/01/12 20:05 】

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