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私的文学論Ⅲ~矛盾の法則~ヘルマン・ヘッセ~車輪の下/春の嵐/デミアン~トーマス・マン/魔の山~ゲーテ/ヴィルヘルム・マイスターの修行時代~エッシェンバッハ~ヘルダーリン~ノヴァリース/青い花~ビーダーマイヤー
海を見に行きました
本も持たず
ただ
ひたすら
太平洋を眺めていました。

DSC_0709.jpg

早春と呼ぶには春まだ浅い2月の朝陽は
限りなく穏かで
優しくて・・・

波間から
溢れくる豊饒な揺らめき
その美しさに
小さなときめきさえ覚え
たゆとう光と影の舞踏に酔わされます

危うく引き込まれそうになるのを
避けるように
鳶色のソファー奥深くに
身を委ねます
注意深く・・・

ゆっくりと
確かな傾きを見せる
暖かさに満ちた光の帯が
果てしのないような空を
オレンジに染めてゆきます

ともすれば見過ごしてしまいそうな
大切な想いと
深い洞察を湛える夕陽の煌めき

午後の柔らかな放射は
迷いに蹲る私をも
静かに包み込んでくれました・・・。



儚さと永遠性を交錯させる海のなかに
矛盾の普遍性を思います。

私たちは
矛盾の軛から逃れることはできない

何事も思う通りになんてゆく筈もなく・・・


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あらゆるものの発展過程に
そのプロセスの総てに
矛盾の運動は存在するということ。
そしてまた
矛盾は相互に依存し
抗衡します。
ですがこの相克こそ
対象を成熟させてゆくものに他ならないんですよね。


思考の領域でもそれは同じで
私たちは
自己を解決してゆく過程で
矛盾が避け得ないものであると思い知らされます。
そして
時に不条理となって
私たちの前に立ちはだかります。
然しながら
社会を構成する
私たち各々が持ち合わせている処の概念
その差異とは
客観的矛盾の投影とも看做される訳で
この客観的矛盾が、
主観的な思索に投影され
概念に矛盾運動を呼び起こし思想の発展を促す
言い方を変えれば
矛盾を解決せんとする思想的相剋なくば
人がひと足る意味の停止にも繋がりかねないとも言えそうです。

こうした矛盾の原点に
時代の価値観にさえ立ち向かい
真摯に向き合った作家のひとり
ヘルマン・ヘッセ。

先日の記事で彼が
”自分自身へ至る”道を模索し続けた書として
”デミアン”をご紹介させて戴きました。
ですがこちらは
ヘッセの孤独で深淵な精神世界が克明に描かれており
無作為にこの一冊を手にして
作者の意図をすんなり飲み込むには
確かに難解な類の書であったように思います。

今日は主に
この書を読まれた方に向けて
ささやかな考察を綴らせて戴きます。


********************************************************



ヘッセ作品の最初に出会った”車輪の下”
ここでは
学校教育を論難する背後に
必ず国家主義、軍国主義を指弾するヘッセの姿があり
そんなヘッセ文学の奥行きに魅せられた私は
続いて”郷愁””春の嵐””漂泊の魂””青春は美わし”
そして”デミアン”と読み進み
それから”メルヒェン””シッダールタ””東方巡礼”
”荒野のおおかみ ””知と愛”””少年の日の思い出””ガラス玉演戯”
と入り込んで行きました。

というのは
一度読んだだけでは解読しきれない
ヘッセのエソテリックな世界観を咀嚼するに
作家の思想遍歴を辿らなければ
その真意には到達できないような危うさを感じたからです。

作家が執筆した順(発表順でなく)に
読みこんでゆく極シンプルな読み方です。

そうしたなかで
”春の嵐”
それから”青春は麗しまでのヘッセ”と
”デミアン”を描き出したヘッセ
ではその心的形象に大きな変化を私は感じたんです。

”デミアン”の時代背景は
第一次世界大戦直後
心身ともに疲弊したドイツです。

ヘッセが学んだ
キリスト教神学は
悪は善の欠如であると教え
天地は絶対善である神による無からの創造という教義です。
であれば
それはそのまま倫理的帰結を生む筈です。
が、
”車輪の下”の頃から垣間見せていた思考断片からも見て取れるように
現実社会への鋭い洞察力を兼ね備えたヘッセは
この教説にリアリティを持てないでいたんですよね。

戦禍のなかに厳然と聳える”悪”の存在も
傷ついたドイツ国民の蘇生法も
キリスト教という倫理的指示書の枠の中からは見出せないほどの
危機的な国家状況にあったということもでもありましょう。

そして
ヘッセはその整合性を求め
東洋思想を探り始めます

その片鱗として
”春の嵐”執筆時に
既に業論を取り入れています。
業論は
仏教においては非常に重要な概念とされているものです。
ですが
ヘッセの生きた時代は
キリスト教世界観の呪縛から抜け出せない社会観がありました。
彼は
この時代に在って既に
聖書を
”知見にいたる有効な道”
としながらも
”知見そのものではない”として
仏教の基本的概念である業(karman)に依れば
人間生活におけるすべての現象の説明がつくと・・
人生はこの業説に集約されるとまでした
見解を持っていたんですね。

この業論
こちらは
釈迦が成道する以前から
輪廻、宿命、認識論思想が一体となり
体系化されてきたものであり
結え、インドにおいては古くから重要視され
倫理的力として理解されてきたものなんです。

前述の通り
キリスト教的価値観のなかに
居場所を失ったヘッセが
キリスト教に代わる
新しい思想を
求めて止まなかった精神状態と
この業論が
リンクしたと申しましょうか。
ですがこの時点では
キリスト教世界観の矛盾点を見出すには至っていないようです。

ここでいうインド思想への傾倒は
彼自身の随想によります
ツルゲーネフやハイネ、
ロマン・ロランに耽溺した経緯と
早くからドイツのアウトサイダーとして在った
其の先にその糸口にも繋がるものが幾つか見受けられます。

ひとつめに
ヘッセの生まれた南ドイツカルプは
シラーの故郷であり
ヘルダーリンの故郷でもあります。
世界で一番美しい土地とする
シュヴァルツヴァルト
其処は西洋に在りながら時に
東洋の、
時に禅定の、
さらには異教の世界観をも併せ持った場でありました。

ふたつめに
プロテスタントの牧師になることが
宿命づけられたかのような生育環境から
ヘッセの精神を救い出したもののひとつに
自由で開放的なビーダーマイヤーが考えられます。
こちら
日常の些事に在って
慎みのなかに高邁さを静なるものに高雅さを
見い出す市民文化を示します
日本の詫・寂の美意識をも想起させる尊い文化です
此処にビーダーマイヤー文学が生まれ
ビーダーマイヤー時代が築かれました
芸術的創造に啓蒙的意義をも置いた概念でありました。
(私は学生時代ビーダーマイヤーを学ぶ過程でカノーヴァに魅せられました^^)

さらに
彼自身が記した祖父の影響と相俟った
インドへの旅・・・。

矛盾に苦悩し、自己解決の道を模索し乍も
希求し拒絶され挫折を繰り返しながら
新たな境地
”デミアン”に行き着きます。

ですので
この書は結果的に
所謂”教養小説”となります。
本場ドイツで云う処の
”ビルドゥングスロマン(Bildungsroman)”と呼ばれる範疇に属するものです。
ドイツ語でビルドゥングとは自己形成のことであり
日本では
自己形成小説とも、
また
構成によっては発展小説或いは教育小説とも呼ばれているものです。

こちらは
19世紀モルゲンシュテルンによって
ーー或るテーマを軸に
主人公の教養が完成段階に至るまでの推移を克明に描き
読者の教養を促進する影響力の大きいものーー
とした定義が与えられているジャンルです。
ゲーテの”ヴィルヘルム・マイスターの修行時代”を初めとして
エッシェンバッハの叙事詩”パルチヴァル”があり
ノヴァーリスの”青い花”があります。
そしてヘルダーリンの”ヒュペーリオン”があり
ケラーの”緑のハインリヒ”
そして
かのトーマス・マン”魔の山”などがこのカテゴリーとなり
学びの途に在る青年たちが
ピュアで柔軟な思考を併せ持つその年代にあって
手に取るに相応しい書であろうかとも思うんですね。

(なんだかヘッセを読まれていない方には
コアなエピソードがかなり含まれてきてます。
詳細まで記しますと論文の様になってしまいますので
例によってWEBで検索できることは省略して行きますのでご理解いただけたら幸いです)

ヘッセは
主人公シンクレールにデミアンを引き合わせ
”創世期”に記されたアベルとカインの物語を例に
宗教の呪縛から解き放って行くんですね。

(精神分析のパイオニアであるフロイトは
 同じく創世期のこのエピソードから
 兄弟(姉妹)の無意識的葛藤を
 ”カイン・コンプレックス”と名付けていました)

ですが
この逸話は大変に理解し辛いものです
神の態度そのもが不可解だからなんですね
総てに平等であろうはずの神がそうではなかった
アベルの供え物だけに目を留めたのですから・・。

創世期の始まり
この時点で既に神の言葉にさえ
矛盾が見てとれるわけです。
このエピソードをどう解釈すべきか判断に迷い
(その著作の多くがアブラハムから始まっている現状を見ても判るように)
旧約聖書の謎を解く鍵は
この逸話に在るとされているほどの重要な場面なんですね。

人間の本質には必ず自己中心性が潜んでいます。
ひとびとが信仰に勤しむその背後の多くに
自身への救いを求める何者かはあるものでしょう
ですが
高等宗教とされるものは
自己中心性を否定せよと教えます
宗教の道はひとつ間違えば
自己否定の道にも繋がりかねません

その後
カインがアベルに向けた嫉妬や行動は
許されるものではありません。
そして
それ以前に
納得の行かない供え物を
アベルに追随して供える道を選びとれば良かったのであろうことも判ります。
ですが
そもそもの大前提
ヤハウェがカインの供え物を無視したことは
人間的合理的精神からは、理解できない不条理と取れなくもありません。
でありながら
カインはヤハウェへの絶対的な信仰を要求されたんですね。
此処の処を
ヘッセは
バッサリ切って落とします。

神に拒まれた者と受容された者の間に
深刻な不調和が生じるということ
ヘッセはそれをデミアンに
見抜かせたんですね・・・。

(ここでヘッセが施したデミアンの解釈は
実はキリスト教の起源、その当初から既に矛盾は存在していたものであり
この克服こそが
キリスト教そのものであり
プロテスタンティズムであったとも
言われてはいるのですが・・・。)

こうしてシンクレールはデミアンから離れて、
自身へ至る苦闘の道を歩み始めます。
車輪の下に描かれているの第一の危機に続く
第二の精神的危機がデミアンによって解放され
そして最終局面
苦難の道、自身へ至る道に対峙することになります。
その後
少女ベアトリーチェへの形而上的愛のもと
内向きな意識に専心し
聖なるものへの安らぎを・・・
さらに
矛盾を内包する神アプラクサス(=藝術)を説く
音楽家ピストーリウスの言葉・・・がありました。

そして敬愛するデミアンから届けられたメッセージが


ーー鳥は卵の中から抜け出ようと戦う
       生まれようと欲するものは、一つの世界を破壊しなければならないーー

自我はあらゆる矛盾を内包する鳥(アプラクサス=世界の統合性)に向かい
自由な生を阻む殻(意識・帰属社会のくびき)を破って飛翔する・・・

        
少し前の時代のニーチェの
ーー神は死んだーー
にも近しい概念とも謂えるでしょうか。

また
ユングがフロイトと袂を分かったその
その分析理論の差異も想起されます。
と申しますのは
フロイトが今ある現実を唯一の現実と捉えたのに対し
その現実は超えることの可能な或るひとつの現実にすぎないのだとした
ユングの”現実観”にそのまま通じる考え方なんですね。

途中シンクレールはフロイトの説く”夢”の共有という
到達不可能な試みにも心揺さぶられるのですが
これは土台無理な理論であって
シンクレールは力尽き最終的に
大いなる女性に包まれることを希求し始めます。
そうして
地上に降りたアプラクサスとも謂える
エヴァ婦人と運命的な出会いを果たすんですね。
”聖なる背徳者”デミアンの母です。
シンクレールの遍歴したその総て
この世界にあるその総てを総括したもの
シンクレールが最後に行き着いたものは
それは物語の原点であり
総ての矛盾の母であった・・・。

シンクレールがキリスト教の呪縛から
解放され
何かに依存することこそが苦悩の原点になり
自身に至る道を歩めば良いことを知る・・
自己回帰した瞬間です。

この”デミアン”が
往時、いかに問題小説であったかは
この作品をヘッセの名でなく
エーミール・シンクレールとして
出版したことがそれを象徴的に物語っています。

最終的にシンクレールがどこに行き着いたのかは
敢えて記されていません
ですがヘッセは
トーマス・マンが”魔の山”にして
ドイツ特有の精神に懐疑の眼差しを向けたように
”デミアン”で歴史(戦争の歴史,キリスト教の在り方)が内包する矛盾を
俎上に載せたんですね


そしてその矛盾は
原初から潜んでいたこと
どんな事象にも
矛盾を含まないものはないということ
もっと言えば
矛盾がなければ
世界さえ存在できなくなってしまうということ・・・。
そして
何かを考えるということの
根本には
必ずそれが在ると云うこと。

デミアンの後ヘッセは
”シッダールタ””東方巡礼””ガラス玉演戯”を発表していますが
心を統一して自己に向けて真理を探ることにより
安定した精神状態に行き着くという
禅定思考にも似た心理を著していました。

※禅定によって
心を乱されない力を身につける
その力を禅定力と呼んでいます・・・。



ですが
最終的に
ヘッセは・・・
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テーマ:哲学/倫理学 - ジャンル:学問・文化・芸術

【 2013/02/11 20:32 】

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コメント
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* [編集] 【 2013/05/09 19:13 】
--- 初めまして ---

sakiさん、初めまして。

富山のタケです。
いつもご訪問ありがとうございます(^^)
私はこっそりとsakiさんの美しい写真の数々を拝見しておりました(コメントせずにすみません)
ヨーロッパは高校の時に演奏旅行で滞在したので凄く懐かしいです♪
これからも遊びに伺いますので宜しくお願いしますm(__)m
タケ * URL [編集] 【 2013/03/16 16:17 】
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* [編集] 【 2013/03/01 22:03 】
--- karasugasuki さま ---

はじめまして
ご訪問ありがとうございます。
そしてお優しいメッセージ嬉しかったです☆
ご質問ですが
こちらの写真は
一眼レフのレンズの先にもう一枚専用レンズを装着しているんです。
光を放つもの(光源)であれば
ランダムにキラキラ光ります・・・。
saki * URL [編集] 【 2013/02/28 23:14 】
--- ---

足跡からきました!すごく綺麗な写真でびっくりです。参考になります!キラキラ表現どうすれば?また遊びにきますね!
karasugasuki * URL [編集] 【 2013/02/28 22:07 】
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* [編集] 【 2013/02/26 07:18 】
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* [編集] 【 2013/02/25 09:51 】
--- 水嶋さま ---

おはようございます
私は元気いっぱいです。

素敵なメッセージありがとうございます
すごく嬉しかったです
けれど
こんなふーに褒めて戴くのは勿体なくて・・

ふっ
と・・・
時間を見つけたときに
徒然に
綴らせて戴いているだけなんです・・

きょうの記事は
私がどんなにささやかなひとか(笑
水嶋さまに知って戴きたくて
綴りました・・。

saki * URL [編集] 【 2013/02/24 11:44 】
--- ふうたんさま ---

ふうたんさま

ウォーラ―ステインの大変に奥深い
メッセージを頂戴致しましてありがとうございます!

そうですね・・・
生きて行くことは
大変なこともたくさんで
時に挫けそうになることも・・・

そんなときに
大きな勇気を与えてくれるもの
それが
書物のなかの
先人たちの叡智であることは
少なくないんですよね・・・

ふうたんさま
みなで
ともに励まし合い
助け合いながら
がんばってゆきたいですね♪


saki * URL [編集] 【 2013/02/24 11:40 】
--- ---

saki様

おはようございます
お元気ですか
実はここ何日間かこちらの文章の印象を引きずったまま過ごしていました。
これはサキさんの奏でる音楽なのでしょうか?
以前から綴られる文章に心地好く響く美しいリズムを感じていました。音楽好きを公言なさっているのに「遅い!」と思われるかも知れませんが…
それとも詩のような評論文、評論文のような詩…
それともこれはもっと大掛かりで素敵な企てのための「ラフスケッチ」「デッサン」「メモ」のようなものなのでしょうか…
水嶋
水嶋康惟 Mizushima Y. * URL [編集] 【 2013/02/24 09:08 】
--- 世の矛盾。 ---

sakiさまのブログを読んで、「矛盾」について、思い出したことがありました。「ウォーラ―ステイン」の、「この世界は、必ずしも、平等ではない」という言葉です。そうですよね。生まれた時から人は平等ではなく、もう、生まれた時から、不平等という「矛盾」を背負って生きているんですよね・・・。生まれてから、社会に出てから、様々な「矛盾」と出会う運命にある人。立ちむかえる勇気、私も必要な時があります。
ふうたん * URL [編集] 【 2013/02/22 12:51 】
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* [編集] 【 2013/02/21 21:31 】
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* [編集] 【 2013/02/17 12:26 】
--- わんx3 さま ---

はじめまして
ご訪問&メッセージありがとうございます♪
> ラヴェルの「水の戯れ」
光栄です。ありがとうございます。
こちらは熱海海岸から太平洋を撮影したものです
水の戯れは
ほんとうに美しい曲で・・・。
こんなふーに謂って戴けると
写真を撮ってきて良かったナ
なんて思えます^^
わんx3さまも素敵な楽曲を多数ご紹介して下さり
訪問を楽しみにしています。
これからもよろしくお願い致します♪

saki * URL [編集] 【 2013/02/17 00:09 】
--- ---

この画像を見てラヴェルの「水の戯れ」が頭の中で流れました。
わんx3 * URL [編集] 【 2013/02/16 21:55 】
--- ゆう。さま ---

はじめまして
此のたびのご訪問&メッセージに感謝です♪
ゆう。さまのお考えを
お寄せ戴きありがとうございます。
そうですね!私も
解釈は各々自由であろうと思っていますので・・。

ですので
此処には
個人的な神への考え方に関しては一切触れていません。
(記事中にも喚起させて戴いたように
デミアンを読んだ方でないと多分誤解さえ生じてしまう
大変にコアな内容で・・・)
ヘッセはこの書物で、
デミアンに罪のないアベルを殺めたカインを正義と解釈させているんですね・・・
すると読者はここで混乱してしまいます・・
そんなデミアンへの研究的解釈として
ヘッセが生きた時代に彼が受けた
キリスト教神学、教義がどんなものであったか
さらには
ヘッセの苦悩の原点がどうであったかという部分を
シンプルに綴っただけなんです・・。
ヘッセ自身もこうして
キリスト教的世界観からは距離を置いてゆくのですが
晩年には
その解釈の柔軟性に想いが至ってか(←ここは私の想像です)
最終的には回帰しているようです^^
saki * URL [編集] 【 2013/02/15 10:33 】
--- 藍の波さま ---

ご訪問そして
素敵なメッセージありがとうございます♪
藍の波さまからは
いつも感動と
元気を戴いています。
これからも藍の波ワールド
楽しみにしています・・・。
saki * URL [編集] 【 2013/02/15 10:26 】
--- ---

わたしの主観だと前置きの上で 失礼します。
神様という存在がヒトに何を求めているのか。《無神論者》と言って憚らないわたしはそれでも《その存在》は認めている。

神様は教えを説いてはいない。《支配するもの。故に俯瞰するもの》ただ 其処に居ているだけのものだとわたしは感じている。
故にわたしはただ生きる。生きて逝く。精一杯、足掻きながら。
わたしは祈る対象としての神様は居ないです。見届けてくれるだけの神様がいてくれればそれでいいです。

…ナニをいってんだろ?
ゆう。 * URL [編集] 【 2013/02/15 05:36 】
--- ---

>海を見に行きました
>本も持たず
>ただ
>ひたすら
>太平洋を眺めていました


悦びはこの言葉の出逢い。
数行に濃縮されたひかる音たち。
情景が浮かんできます。
何の感慨もなくただ海を見ている。

若山牧水が腰を下ろして。

私は以前「牧水の海」を書きました。
藍の波にUPしてみます。
藍の波 * URL [編集] 【 2013/02/13 22:46 】
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* [編集] 【 2013/02/13 18:03 】
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* [編集] 【 2013/02/13 16:33 】
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* [編集] 【 2013/02/12 20:14 】
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* [編集] 【 2013/02/12 18:18 】
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* [編集] 【 2013/02/12 16:08 】
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