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私的”嵐が丘”論 Ⅳ~エミリー・ブロンテ 
”嵐が丘”を
ドストエフスキーの”悪霊”や”カラマーゾフの兄弟”に
擬える向きもあるようですが・・・

DSC_0148.jpg

そうなんですね
在る部分でイメージ重なるところも^^
けれどいくらなんでも
ドストエフスキーとエミリーが
あまりに違いすぎて・・・。
少なくともエミリーはドスト的な地獄を見ていないでしょうし
革命思想もなかったようですし・・
ですが此処なんですね
そうであるにもかかわらず・・・。

モームが心服しアインシュタインが敬愛し
ウィトゲンシュタインが傾倒したドストエフスキー
(彼らの記述に目を向けるに)その論拠のひとつが
あの強烈な個性・・
そうした意味でエミリーも
ドストが到達し得たかに見える
ヘラクレイトス的境地を
嵐が丘に垣間見せているんですよね。

ーー魂は深く、我々はその限界のなさを知るのみであるーー




※大デュマの手による”モンテ・クリスト伯”は
ほぼ同じ時代の作品ということもあって
かなり近しいかと・・
両者揃ってstorytellerですし。

ただ主人公のモラリティーという点に於いて
エドモン・ダンテスとヒースクリフは決定的に違っていたんですよね
この相違こそが
嵐が丘が嵐が丘たる由縁と言えなくもないのかもしれません。

また、三代に渡る物語
気の遠くなるような時間が流れてゆく空間に
放り込まれるあの独特の感覚・・では
ラテンアメリカ文学の
ガルシア・マルケス”百年の孤独”の奥行きに
重なるところが・・。
そしてその壮大さと対照的な
物語性の息苦しいまでの閉塞感
このギャップが
”嵐が丘ワールド”構築に大きく寄与しているものでしょう。


後はもう
想像力(思考力)との勝負
というか戯れといっても良いのかと・・・。
嵐が丘の物語は
私たちのそれによって
如何様にもできる特殊な空間が支配しています。
生かすも殺すも読み手次第
ブラックにも
シュールにも
深遠なるものにも
永遠なるものにも・・・・。

そしてこの物語の根底に
厳然と在り続けるのが
作者エミリー・ブロンテそのひと
とにかく凄いです。

ここでも作品はひと
エミリー・ブロンテ
彼女の世界観そのもの
なんですね。

エミリー・ブロンテは嵐が丘に
根源的愛の世界を表現しました。
こうした
普遍的人間性開示の実現は
文学の原点でありましょうし
また
文学の永遠性を可能にしてゆくものではないかと・・・。


ーー私のエドガーへの愛は森の枝の葉のようにうつろうものです。
でも、ヒースクリフへの愛は地底の巌のように永遠なんです。
私はヒースクリフですーー


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真に人を愛したなら
”そのひとは
自身の心に棲みついてしまうもの
そして自身の居場所は
もう愛するひとの心の中
そこにしかない”
ということなのでしょうか・・



ーー最も優れた人は、多くを求めずたったひとつの大切なものに無限の運動を続けるーー
                                    ~Hērakleitos



























































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テーマ:哲学/倫理学 - ジャンル:学問・文化・芸術

【 2013/04/24 08:34 】

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