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プルースト/失われし時を求めて~円環する時間~ハイデガー
現代の時間観
限りなく直線的です
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古代のギリシアやインドは
反復する時間のなかにあり
それは
陽は沈みまた昇るような
或いは
季節が廻るような
”円環する時間”
そうした概念に
支配されていました。

中世になって
”終末思想”のキリスト教的世界観を起源とした時間
(良く言えば”未来”)に統馭されるようになって・・・

そして近代以降
客観的な”数量”としての時間(スケール)が
人間たちを先導するように闊歩し始めた・・・

故か、デカルトは人間にとっての時間を認めようとしませんでしたし
カントは”感性による直観の形式”とした
要は、時間は、空間同様に
ただ存在するのでなく
認識する人間の内にあるとしたんですね。

そこから
ベルクソンは
空間は時間の派生態であると考え始める
そう
私たちは過去を”空間化”して認識していると理解した訳です。
時計が音を刻む
物理的外面的時間を”過去”とし
空間化されない時間”純粋持続”こそ”主体の自由の根拠”としたものです。

その後
プーレが
このベルクソンの”過去の空間化”を批判します。

思い出は時間軸に沿って整列されているものでなく
プルースト的なものなのではないか・・・と。

ーー記憶のすべてのもの
   あの街も庭もみな私のティーカップから出てきたーー



此処には
私達の自己認識の手立てとなるものが
”記憶の再認”ただ一つだけ
という
根源的問題が伏在しています。

現実の時間に働く感性こそが
過去の感覚を浮かび上がらせ
そこに構築される記憶の出現
それこそが
”自我”を支える
それを於いて他に
自我の証となるものはないという事
よって
”記憶”は”自我認識の唯一の手段”
アイデンティそのもの
ということなんですね。

記憶がひとにとって
どれほど大切なものか・・

如何に
未来の時間が豊かに眼前に横たわっていたとしても
記憶を失う病が
いかに恐ろしいものであるかに思いを致せば
分り易いようです。

自分が生きたことを認める過去は
自分が生きてきた証
もっと言えば
人間の基盤となるもの
結え
真の人間
本質的人間は
過去との関係性でしか
その存在は認められないことになってしまうんですね。

プルーストの”失なわれし時を求めて”は
まさに
失われた時を求めて
気の遠くなるような旅の中から
自己の本質を見出す物語でもある訳ですが

この超越した時間のなかにしか
ハイデガーの謂う
”人間的時間”は備わらないということになりましょうか。

“時間”の観点から眺むるなら
人間は
紛れもなく今此処にある存在
であり乍
同時に絶えず未来へ向けての運動を続けざるを得ない存在
けれどその未来は
全く以て未知の領域であることから
より良く生きようとする人間は
絶え間なく過去へと回帰せざるをえない存在・・・

学術から垣間見えてくる
人間本質への深い諒解は
雄偉たる時間を
厳かに告げられるそれと
少し似ているように思います。

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【 2013/09/26 08:27 】

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