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無記/仏教哲学~ウィトゲンシュタイン~語り得ぬもの Ⅰ
仏教哲学にある
ー無記ー
という姿勢

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西洋で謂えばウィトゲンシュタインの
ーWhereof we cannot speak, thereof we must be silent.ー
を思わせる思想です。

語りえぬものについては、沈黙しなければならない

一見すると
”解釈の拒絶”と混同されやすい概念ですゆえ
従来の形而上学的哲学探求から
ウィーン学派の論理実証主義の系譜へと
流れを変える切っ掛けとなったMAXIMでありました。

”知識”を考えた時に
不可逆的に生じてくるのが
何をもって知とするか
その基準がどこにあるかといった疑問であり
ウィトゲンシュタインは先ず
それを問題にしたんですね

私たちは”語り得るもの”
即ち”言語”化されることでしか
知ることができません。
(そして語り得ないことは感じるだけ・・・)
よって私たちの知的理解の総ては
言葉に収斂されてゆく・・・
所謂”言説化”と謂われるもの

優れた先人たちが
何千年という歳月のなか積み上げてきた叡智
そしてその先を目指す形而上学
けれどそれは時に究極のtautologyにもなりかねません

大切なのは
語り得ることと
語り得ないことを見極めるチカラなんですよね。


ですのでそのプロセスこそが
哲学の本来の役割としたのが
ウィトゲンシュタインだった・・・

”無記”しかり

何れも
言説化を全て否定するものではありませんのに
誤った解釈から言語批判に
知の限界を声高に叫ぶ者たちは
(ポパーの言葉を借りれば)
”客観的知識の存在意義”の否定となり
そのための内省的思索の否定となり
そのまま反証可能性をも否定することになるという
近視眼的生き方に陥ってゆく・・・。

言葉にならない
だからといって
言葉を閉ざす思考停止が引き起こす弊害

ですので
解らないことを前提とした上で
それでも
思索を重ねることの意味性を
見極める能力が求められるんですね

洞察の前に限界を決めることなく
沈黙の先を見詰め
耳を澄ませる
すると時に
確かに聴こえくるものがある

言葉にならない
瞳に映らないからこそ大切なものたち
魂が震えるほどの感動に
身を委ね
ただ、受け身で居られるほど単純なものではありません
その感動を遍く体内に行き渡らせると同時に
得も言われぬ情動の本体にアプローチしたくなる
そう
能動的に動きたい欲求が呼び覚まされるものなんですね
そして
それに突き動かされる。
私たちは想いをめぐらし
洞察を深める
しかし
目的はそこで得られる結果でなく
プロセスなんです
この主体的活動が齎す歓び
その過程にこそ
人がひと足る本質が潜んでいる・・・
それが
ひとりの人間が限界まで物事を突き詰められるその背景に
精神世界の豊かさが必要だと謂われる由縁かもしれません。











































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テーマ:哲学/倫理学 - ジャンル:学問・文化・芸術

【 2014/08/12 19:46 】

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