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今を選り良く生きるということ・・・を想って
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”思考で感情はコントロールできる・・・”
エストリルのクリスマスローズで
折に触れて、綴ってきた
その文脈なのですが

シンプルに言えば
”すべては、自身の中に”
といったところでしょうか。

環境(人間含め)を変えることには
相当の労力を必要としますし
不可能なこともたくさんあります。
(それを職業ないし目標とされている方は別として)
処世術と謂えば語弊がありますが
生きるに必要な術策
もっと言えば
より善く生きるため
自身の思考その再構成(※その方法はそれぞれの状況に合せてカスタマイズ)
を試みることで
実に速やかに
多くの問題が解決される・・・。

諦めるというようなネガティブな意味でなく
望む自分に近付くだけ
それは紛れもなく
心地良さを運んできますし
精神の柔軟性、寛容性など
自己成長も伴います。

容赦なく降り懸かってくる
哀しみ、苦しみを
避けようとすればするほど
皮肉にもさらに増幅して
襲いかかってくるようなところもあるのかと。

ですが
穏やかに
あるがままを受け入れようとした
その瞬間から
すっとこころが楽になる
あの感覚を
それを克服と云わずして
なんと表現しましょう・・・。

似た理由から
”ひとは優しくなると恐いものなど
実は
何もない”
と私は信じているんです。

周囲のひとへの想い
そこに思い遣りを重ねるなら
軋轢も
確執も
居場所を失うように感じていますゆえ。

そして
さらに。

夢を見るから
せつないのかと・・・
同様に
過去は想出し涙するもの
なんかじゃなくて
現在にいかして
一緒に歩むものかなって
思ってます。

思考は自由
なんですよね
これこそが
存在の自由を
保証するものではありませんでしょうか。

ほんとうの贅沢
って
如何にして思考で感情をコントロールして
心地よい時間を過ごすかって
そういうことではないかと・・・。

同じ時空に身をおくなら
出来る限り豊かな時間を
創造して
今というこの時々を生きたい
なんて思ってます。

**************************************

上記、文中でカスタマイズと記しましたが
明文化されたなかからその変遷を少し紐解いて
みます・・・。

仏法の根幹にある”無執着”ですとか”無我”
或いは
日本古来よりの”無為自然”などいずれも
あるがまま的美学に貫かれた概念だと思うんですね。
此処には
解釈を拒絶し
ただ、ただ原始を見詰める眼差しが
息衝いています。
それは、当に
無濾過である
本源そのものかもしれません。
(然し此処にも見るものとみられるものという主体、
客体の二元論は残りますが・・・)
そしてこちら概して、
東洋哲学にこそ馴染むというイメージがあります。
と申しますのは、
西洋的思考の方とお話しをしていると
”根源的理由なし”とした立場をして
違和感を感じていらっしゃるのが
伝わってくることが少なくないんです。
そう、何にでも理由を求めるというその思考回路は
科学という視点で眺むるなら
科学推進の原動力となり
科学的アプローチへの道程に寄与するものでありましょう。

ーーそもそも科学と
(一つ間違えば無限後退や
自己言及問題にも陥りかねない)
究極的アプローチをする哲学では
求めているものが違いますーー

西欧での存在論を
”偶然性”ですとか”無根拠”
といった言葉で理解しようとしたのが
サルトルの小説の主人公”ロカンタン”でしたっけ。

思えば
すべてのものを疑ってみたデカルトの
懐疑論にその萌芽を感じてもみるのですが
そこに内包されし観念と実在という二元論
それは、その後
観念的傾向のドイツ啓蒙思想
そして
唯物的傾向のフランス啓蒙思想に落し込まれてしまう
結果それをカントが統合してはみたものの
実際には、しきれてはいませんでした
ただ、論理空間という括りで考えるなら
それも克服できたと謂えばそうであったものかと
思ってみたりもしています。










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テーマ:文明・文化&思想 - ジャンル:学問・文化・芸術

【 2014/11/12 17:27 】

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