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ヘーゲルよりキルケゴールのあなたへ
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”徹底的に
個の場所に拘る・・・”

あなたが
仰られていること
理解できます。

というより
私も
いえ
多くの人が
たぶん
結果的には
そのようにしか生きられない
であろうし
そのように生きることこそ
より人間らしいと謂えるのかとも思っています。

ただ・・・
ヘーゲルは、キルケゴールが指摘するように
観念的(壮大)に過ぎて
現実から目を逸らしていたのでしょうか。
実は彼
さして理性的とは言い難い
この実社会を誰より直視していたものかと。
だからこそ
伝統や慣習が支配する他者に
阻害される個の特性を憂慮し
個を確立し
しっかりと独立させんがため
精神の自在さに焦点を当て
人間の本質を(自由)精神
としたものだったかと
個人的には理解しているんですね。

(但し、これがなかなか難しくて
人間は社会的動物であるが故
高い精神性と確固たる信念なくば
すぐに流されてしまい
そう簡単にこれを実現せしめるものでもありません結え。
で、彼は歴史を連れてきた。
彼の云う歴史は
時系列に並んだ出来事のお話でなく
意識の発展を意図する
自由意識の進歩そのものに言及する
そうした類のものでした・・・。)

実存主義的思考性(ニーチェ、キルケゴール)は
ヘーゲルのこの存在論を否定しました。
”普遍的真理”なんかより
人間の個体性を重んじ
現実存在を見詰める眼差しを!
と。

端的に謂えば
たったひとつの掛け替えのない自分だけの真理の探求
それこそが
生きる支えになるのだ
といったようなところでしょうか。

少し振り返ってみますね。

ヘーゲルのそれは
往時の西洋知の集大成であり
また体現でもあった訳で・・・
そうした”絶対精神”に対し
観念論から唯物論へ転化したマルクス(学位論文時点ではまだヘーゲルワールド居住?)がいて
ヘーゲル体系の非個性を批判したキルケゴールがいました。
(認識活動に関わる視点で眺むれば
キルケゴールはある意味
カントー本質と存在の二元論ーに近かったんですよね)

*****ニーチェ(ヘーゲル批判も重いですが)の”神は死んだ”ではありませんが
キリスト教的世界観に落し込んでしまえば
そこで思考停止になってしまいますのでこの章では割愛します*****

ですが
”人間の本質が精神的存在である”といったところ
此処までは
キルケゴールも異論はなかった筈

問題はこの”精神的存在”を
抽象的概念の一例と捉えるか
たったひとつの掛け替えのない存在と捉えるか
(これ、紛れもなく後者なんですね・・ですので)
此処は、
解釈の問題になってこようかと思うんです。

そもそも
ヘーゲルほどの人物が、個の存在を
存在者という一般的概念の具体例に過ぎないといったような
そんな非人間的な
ともすれば人間の尊厳そのものを傷つけるような
そうした見方をしていたようにはどうしても受け取れずにいるんです。

(キルケゴールの云う
”人間の水平化”を思わせるような記述はもちろんあります。
ですがそれは・・・)


”あれかこれか”という選択
その苦悩に
迷いに
葛藤に
その中にこそ
人間の生きる意味があるという
キルケゴールの価値観に
甚く共感する者たちは

自身の心の信じるままに
真理を見出し
そのためだけに生き
そして死ねるほどの
究極の
主体的真理
イデーを求めるものでしょう。

そして
この主体的真理
個々がそれぞれに信じるもの
情熱を駆り立てるほどのイデー
・・・・・の
その先のお話を
ヘーゲルはしていたのだと
私は理解しているんです。

高潔な精神が
苦難の末
各々に到達した高み
であれば
それは全く異なったようなものなどでなく
そうした極みには
どうしたって
何かしらの普遍が息衝く
と、そういったことをヘーゲルは述べていたように思うんです。

ですので
キルケゴールが徹底的に批判したヘーゲル哲学
”あれもこれも”でそれらを否定しているという見解が
私には解せないのです。

ヘーゲルの弁証法的思考方法を
矛盾律を止揚してしまったものであるとする
あの批判です。

(ナチスに悪用された思想の取り違えと
似てなくもありません(涙)

あの止揚・・・。

キルケゴールの云う
選言的
絶対的選択はそのまま
自己が真の自己になるべく
矛盾を生き抜く生身の人間の
生成過程そのものであります。

それは不安に満ちた孤独な作業であり
その道程の先は、時に断崖であり
如何なる飛躍があろうと
哀しいほどの単独者は
その狭さに陥ってもがくしか術はありません
そして
不確か(独りよがり)で纏めてしまっては
発展性や進歩性は見出せないようには思うんです。

絶対知というと誤解があるかもしれませんが
大切なのは
”道のりは遠い”
のでなくその世界観が
あまりに偉大であるがゆえ
普遍性で克服し
希望で繋ぐと言ったようなことではなかったでしょうか。

自身の心の奥底が見えるのは自分だけかもしれませんが
それぞれが突き詰め
育み育てた
精神の奥行き
その深み
それは個々の主体性のその先にあるものであり
そうした場での共通項こそ
精神世界においての統一
ヘーゲルはそれをして
絶対精神と名付けたものだったでしょうか。

それでも
実存的思想の観点から見れば
例え世界がどうであっても
個が何たるかが解らなければ無意味だと叫びます
ヘーゲルの世界は大きすぎる
絶対精神で世界は動かないと・・・
唯物史観もそうして生まれてきましたし。

けれどね
それでは
キルケゴールが謳った
差異化の志向と同一化の志向
あの二つの極限形態をなんと説明しましょう。

他人との差異の感知に
こと長けた人間は
その差異に時に劣等を
時に優越を見出します。
しかし同時に我々は
さらに高次の視点からこれを平準化し
同じ平面に立てる契機があること認め
受け止めようとする姿勢をも備えているんですね。
ましてキルケゴール本人も
この同一化原理を差異化原理の上位に置いていた。
こうした
他者に対する”共感の構造”は
相互理解の可能性を認めたものであって
差異の消去とは
全く持って次元の異なった問題だと考えます。

(彼が恐れた差異の忘却は
無名で抽象的な”大衆”への危惧としては
的を射ていると思います。
ですが、それはあくまで
安易な同調によるものであり、向上ではなく
低レヴェルな場所で自己と他者の間にある差異を平準化する運動においてのものであります。
ここでは差異を無化する危険な状況が確かに見て取れます。)

差異が顕在化する平面は
一方では
各差異項を比較するための
高みの人間的共通面を自覚するものであり
絶対的差異の相対化の場であります。
よって
キルケゴールも
人間と人間の間には絶対的差異はないものと
確かに認めていたものなんですね。

キルケゴールが云う
人間的なものの構造
そこに見られる他者関係の構造こそ
その普遍的本質の一部の構成であり
ここから先を体系的に論じたのがヘーゲルであり
それ以前を
批判精神で断片的に否定し続けたのがキルケゴールだったかと・・・。

強いて言えば
ヘーゲルの進歩史観
歴史とは精神が自由を達成してゆくプロセス
絶対精神に到達し得るというところ
(人間理性至上主義的印象への疑問符在りで)
此処は高みに達するべく高邁な精神なくば
到達不能と考えてみたりもしていますし
キルケゴールの思想がヘーゲルなどより
実態に則した
身近な案内書であったとも感じています。
結果彼は
哲学者というよりは
社会心理学者的
宗教家的要素が色濃く出ていた観は否めません。

ただし
個人の”実存”の比類なき唯一性と
代替不可能性を強調したキルケゴールを
私はココロから愛します。
















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【 2014/12/18 21:22 】

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