FC2ブログ
学びと考える機会を下さるあなたに感謝を込めて
DSC_0130_20141215092906234.jpg

此度、
研究医の先生が教えて下さった
”科学英語には(医学の専門用語は別として)
英語が母国語でない読者でも、ひとつの解釈しかできないように
文法的に簡潔で単語もシンプルに著すというルールがある”
ということ
この合理的な規則は
通常のビジネスシーンもしかりで
誤解のないように
出来る限りシンプルに纏めるのが理想なんですよね
一方で
それとは対照的な
輸入哲学に纏わる
哲学文献の原書を思いました。

訳書よりは
解り易いとされてはいるものの
ベルクソンの優美さも
ハイデッガーの硬質感も
訳書になると
ずいぶんと違った印象になってくるのは
それぞれに文学的美文への拘りもある上
解釈が別れるような文構成
或いは、文調に差異が見て取れる世界である証とも謂えましょう。

解釈なしの翻訳と申しますか
時に、原文への裏切りがあり
翻訳の不可能性さえ
見え隠れするほどに
学問以前の
実に多くの問題を孕んでいる
その理由は・・・

哲学書のなかでも
取分け難解とされる純粋理性批判
ですが、その著者カントが
自身の著作の序文に
私のこの理論を、平易な文に置き換えてくれる者がいたなら
それは偉大なる功績だ
といったようなニュアンスのこと
記していたのですが
彼も、同じところで
苦しんでいたのかと推察できます。

そしてこれほど
哲学という学問の在り方の微妙さを
端的に顕すエピソードも珍しいのかと
思ってみたりもしているんですね。

文章には、
表現は複雑だけれど
内容は平易であるケースと
表現は平易だけれど
論理が難解であるケースがあります。

ノーベル賞受賞作家の大江氏など前者に近い傾向にあるのかと
思いつつ(決して嫌いではありませんが)
問題は寧ろ後者なんですよね。
そして尚
”正解のない理論”を
読者に納得してもらうためには
あらゆる角度から
精緻で厳密な論理展開をせねば
批判を受けてしまう
といったような実情もありましょう。

また、
カントですとか
ハイデガーで
テクニカルタームが駆使されているのは
(ハイデガーの400字には
4000字の奥行きがあったりするというところなどから)
簡潔を目指すがゆえの難解さもあろうかと・・・
そうした意味では医学論文に幾分近しいものがあるのでしょうか。

哲学が深度を増すなか
或る一定の晦渋(論旨、文脈が取りにくい)表現になってゆくのは
その性質上避けられない内情もあり
その歪みが
ニューヨーク大の物理学教授
アラン・ソーカル氏の”一部の哲学者”に向けた
あの疑似論文発表の
誘因になってしまったりもしたんですね。

古代哲学の時代から
プラトンは(ソクラテスと打って変わって)
極めて読みやすいものであったという典型的事例があったり
また、アメリカプラグマティズムのように
当初
読んでも読んでもその理解ができない・・
ですが
それも其の筈
その論自体が基本、詭弁で
要は、単なる我田引水的理論
目的のために手段選ばないにも等しい
本質なしの議論であったという
オチもあったりで
問題のカタチは実に様々です。

ドイツでは
公園に遊ぶ小学生まで普通に
哲学用語”aufheben(止揚/揚棄)”を使って
会話しているのをきいて
流石、思索の森を抱える国という印象
そこで思うのは
哲学は
決して記憶だけの学問ではないということ
否、寧ろ
希望であろうかと
私は信じて疑いませんし
何が本当の幸せで
何が真の豊かさか
愛が齎す
その意味深さに思いを致すなど
私たちがものごとの根本原理を
しっかりと考えながら
時間を重ねてゆくことこそ
成熟した社会を築く礎になろうかとも思っています。

そして
答えの出せない問題の答えを
探し続けること
そのものが
生きる
ということなのかもしれないと・・・。



関連記事
スポンサーサイト



テーマ:哲学/倫理学 - ジャンル:学問・文化・芸術

【 2014/12/30 01:05 】

| 哲学 | トラックバック(0) |
トラックバック
トラックバックURL
http://saki2000.blog.fc2.com/tb.php/771-0a47412e
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
| ホーム |